ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

"Moby-Dick" と「闇の力」(15)

 この世で絶対的正義を追求しても、得られるものは相対的正義でしかなく、しかもおびただしい血が流れる。そんなものが果たして正義なのか、善なのか? いやそもそも、絶対的正義なるものは存在するのだろうか。そんな疑念にエイハブが駆られているように思える瞬間がある。
 あらゆる目に見えるものは、いいか、ボール紙の仮面にすぎん。…人間、何かをぶちこわそうというのなら、仮面をこそぶちこわせ! 壁をぶちこわさずに、どうして囚人が外へ出られるか? わしにとって、あの白い鯨が、迫りくるその壁なのだ。ときによっては、その背後には何もないと思うこともある。だが、それでよいのだ。…わが憎しみをやつにぶちまけてやる。(八木敏雄訳)
 第36章「後甲板」の一節である。白鯨を根元的な悪の存在と見なすエイハブは、ここで自分の信念に一瞬、不安を覚えながらも、「目に見えるもの」以上のものを求め、「壁の向こうに何かがあること」を信じようとしている。ミルトン・スターンの言うとおり、「実際エイハブは、戦うべき理想が何もないかもしれないという思いに、身の凍りつくような恐怖を感じたのだ」。
 イシュメールもまた、白鯨の白さに同様の虚無感を覚えている。第42章「鯨の白さ」から、ふたたび同じ箇所を引用しよう。
 われわれが銀河の白い深淵をのぞき見るとき、…虚無の思想に背後から刺される思いがするのは、白の無限定性のゆえだろうか? あるいはまた、白さとは、本質的に色というよりは色の目に見える欠如であり、同時にあらゆる色の具象だからだろうか? 広大な雪景色には、意味に充満した無言の空白があるからこそ――色のない、あらゆる色といった無神論があるからこそ、われわれはそれにひるむのだろうか?…そして、あの白子鯨こそが、これらすべての象徴である。
 要するにイシュメールは、白鯨を理想主義的ヴィジョンの象徴としてとらえながらも、その一方、白鯨の白さは「虚無」の象徴でもあると言う。これは自己矛盾のようだが、決してそうではない。理想だと思ったものが、実際は理想でも何でもないかもしれない。理想が必然的に流血の惨をもたらすからには、そういう「虚無の思想」が生まれるのも当然だろう。つまり、イシュメールにとって白鯨は、理想主義的ヴィジョンと同時に、その危うさをも含めた象徴なのである。(続く)