ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

"Moby-Dick" と「闇の力」(12)

 友よ、もし君が(川の)こちら側に住んでいたとしたら、僕は人殺しになるだろうし、君をこんなふうに殺すのは正しくないだろう。だが、君は向こう側に住んでいる以上、僕は勇士であり、これが正しいことなのだ。
 パスカルの『パンセ』の一節である。川ひとつ越えれば「人殺し」が「勇士」に早変わりし、殺人も「正しいこと」になる。パスカルの言うとおりで、この世を実際に支配しているのは相対的な正義である。ヒトラースターリン毛沢東…大虐殺をもたらした独裁者はしばしば熱狂的な崇拝の対象だったし、現代のテロリストもまたしかり。
 まさに「所変われば正義変わる」、「人の頭の数だけ正義がある」と言いたくなるが、独裁者にしてもテロリストにしても、当人は自分の正義が相対的なものだとは思っていない。それどころか、この世に絶対的な正義を打ち立てようとしている。その結果、おびただしい血が流れ、第三者の目には相対的な正義と見えるものしか残らない。
 エイハブの場合もそうだ。彼はたしかに文学史上に残る悲劇の英雄であり、その死は荘厳なまでに感動的だけれど、乗組員を死に導いた行為は現実の世界では虐殺に等しい。「神たらんとした」エイハブは結局、英雄であると同時に極悪人であり、その「絶対の追求」は「追求」だけに終わり、結果的には地上の正義の領域にとどまっている。
 このように、同じ一人の人間が英雄でもあり悪人でもあり、絶対的な正義が相対的な正義とならざるを得ない現実は、ひとえに、神ならぬ人間が「神たらんと」すること、要は「絶対の追求」から生まれたものである。それなら、その「絶対」とは、エイハブが求めた「理想主義的ヴィジョン」とは、第三者の目にはどのように映るのだろうか。
 この点、ぼくには「鯨の白さ」でイシュメールが述べている白のさまざまな意味が、「理想主義的ヴィジョン」の説明のように思えてならないのだ。(続く)