ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Travis Holland の "The Archivist's Story"(1)

 今年の国際IMPACダブリン文学賞の最終候補作、Travis Holland の "The Archivist's Story" をやっと読みおえた。例によってまずレビューを書いておこう。

The Archivist's Story: A Novel

The Archivist's Story: A Novel

[☆☆☆★★] しっとりした佳作だ。1939年、スターリン圧制下のモスクワ。主人公は文書保管局の職員パーヴェル。昔はアカデミーで文学を教えていたが、今では逮捕された作家や詩人たちの作品を記録と照合のうえ処分する仕事についている。著名作家の未発表の短編を読み、焼却を避けようと秘かにアパートに持ち帰るが…。全編を通じて沈痛で重苦しい雰囲気につつまれているが、それは圧政がもたらす恐怖や不安はもちろん、家族との別れなど個人的な事情による悲哀や喪失感、さらには悲壮な使命感などが渾然一体となったものだ。パーヴェルの妻は列車事故で死亡したが遺体は戻ってこない。年老いた母はアルツ気味。関係をもったアパートの女管理人には悲しい過去がある。そういう政治とは無関係の日常的な悩み、ごく普通の人間がいだく心の痛みがもっぱら描かれるうちに、友人たちに粛清の嵐が迫り、やがてパーヴェル自身も身の危険を感じつつ、可能なかぎり良心に忠実であろうとする。全体主義の恐怖にさらされた人間を政治的、思想的なアプローチではなく、あくまでも日常生活、家庭生活を営む存在としてとらえた点が目新しいかもしれない。ともあれ、ここには心にしみる切ない場面が多い。英語は標準的で読みやすい。