ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Ruth Ozeki の “A Tale for the Time Being” (1)

 最近は自分でも感心するくらい仕事に没頭。読書もブログもさっぱりだったが、この連休中(といっても、ぼくの場合は2連休)は久しぶりにまとまった時間が取れ、序盤だけ読んだまま中断していた今年のブッカー賞最終候補作、Ruth Ozeki の "A Tale for the Time Being" をなんとか読みおえた。さっそくレビューを書いておこう。

[☆☆☆★★★] 終盤、夢なのか現実なのかマジックリアリズムの世界のような事件が発生。やがてその謎を量子力学の立場から多元宇宙の一例として解明しようとする試みがなされる。いささか理に落ちた結末で尻すぼみだが、そこまでの展開は非常に読みごたえがある。アメリカ育ちの日本人の十代の娘ナオが、秋葉原メイド喫茶で英語で日記を書きつづける。その日記が数年後、バンクーバー近くの離れ小島の海岸にプラスチック袋入りで漂着。それを拾った日系人の女性ルースが大いに関心を示し、同時に彼女の人生も綴られるという二重構造だ。太平洋戦争末期に特攻隊員として戦死したナオの大伯父の手紙や日記も挿入され、時には三重ともいえる複雑な叙述スタイルがじつに巧妙。太平洋戦争のほか、9.11テロ事件、イラク戦争、さらには東日本大震災福島原発事故という歴史的大事件を、三つの物語のなかで齟齬なく結びつける力わざにも舌を巻く。アキバの猥雑な風俗と、カナダの静かな自然と人情のコントラストも鮮やかだ。が、なにより胸を打つのはやはりナオの物語だろう。日本に帰国後、父親がなんどか自殺未遂。東京の中学校でナオが受けた想像を絶する、しかし現実にありそうな恐るべきいじめと暴行。その試練を彼女はどう乗りこえていくのか。彼女に感化を与えるのが曾祖母の尼僧ジコーで、このジコーのことばと、道元の『正法眼蔵』からの引用が本書のタイトル、『あるときの物語』へとつながっている。人間にとって時間とは、存在とは、生とは、死とはなにか。そうした問題について、本書はけっして観念論ではなく、個々の具体的な瞬間から考え直すきっかけとなる作品である。ひとことでいえば人間の運命の問題だが、戦争もテロも、異なる正義や価値観の衝突がもたらす運命の悲劇であり、まさしく多元宇宙の所産である。ところが、本書における戦争のとらえかたには〈正義の多元性〉という視点がいささか欠けている。ナオやルースなど中心人物が陰翳豊かに造形されているのにたいし、肝腎の人間観・歴史観のほうはやや一面的で図式的。これでは道元の教えも個人的な悟りの勧めにすぎないのではないか、という疑念さえわいてくる。惜しい。