ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Orhan Pamuk の “The Museum of Innocence”(2)

 大型連休の初日。ぼくも久しぶりにのんびり朝から本を読んで過ごした。こんな日は、やむを得ぬ事情で今月から元の職場に復帰して以来、初めてかもしれない。
 そこでやっと、Orhan Pamuk の "The Museum of Innocence"(原作2008、英訳2009)の落ち穂拾いをする気になった。ご存じ Pamuk のノーベル文学賞受賞第一作だが、読了したのは、なんと一ヵ月半も前のことである。 

 それなのに、ぼくにしては珍しく内容を鮮明に憶えている。もちろん非常に面白かったからだが、読んでいる途中、いろんなことを考えたせいでもある。その最たる例を挙げると、彼ら外国人は、どうしてこんな、ホレたハレたの話だけではない大恋愛小説が書けるのだろうか。ひるがえって、日本の小説、少なくともぼくが寝る前に読むものは、どれもなぜチマチマしているのか。
 本書も最初は、ただのメロドラマかと思った。が、それにしては分厚すぎる。きっと何かべつの要素があるにちがいない。図星だった。「1970年代から80年代当時、トルコがたしかに経験したものと思われる西洋文化と固有の文化との衝突が、ふたりの恋愛に端的に象徴されている」。「いわば西洋と東洋のはざまで彼らは悶え苦しんでいる」。
 ほかにもあれこれ書いてレビューをでっち上げたけれど、いま振り返ると、この「恋愛と文化」という問題がいちばん心にのこっている。Pamuk 自身としてはたぶん、「フィクションを現実化し永遠のものとする」ことが第一のねらいなんだろうけど。
 どちらにしても、ここでは恋愛がメロドラマであり続けながら個人の領域にとどまらず、個人を大きく超えた次元にまで発展している。なぜか。ひとつには作者が文化と文化の衝突を、もうひとつには永遠の時間を意識しているからだろう。
 本書にはこんな一節がある。" .... if you forget the time you'll feel better," Tank Bey would say. Here he was using "time" to mean "the modern world" or "the age in which we live." This "time" was ever-changing thing, and with the help of the clock's perpetual ticking, we tried to keep it at bay.(p.393)
 文脈の説明は面倒くさいので省略するが、とにかくこのくだりその他から、ぼくは強引に次の結論を導いた。「絶えず変化する時間そのものが近代的概念なのだと作中人物は述べる。つまり『時間のない世界』とは反モダニズムの世界であり、ゆえにその創造は伝統への回帰でもある。ここにもまた西洋と東洋の衝突を読み取れることは言うまでもない」。
 大きいことはいいことだ、というわけでは決してないけれど、本書のように「メロドラマであり続けながら個人の領域にとどまらず、個人を大きく超えた次元にまで発展」する恋愛小説を読むと、どうしても彼我の差を感じないではいられない。ぼくの寝床の友が「個人を大きく超えた次元」に達しないのは、ひょっとしたら、そもそもそういう次元感覚が作者に欠けているせいかもしれない。いや、それはひとり作家だけの問題ではないような気もしますが、どうでしょう。
(写真は、愛媛県宇和島市立宇和津小学校。昨年秋の帰省時に撮影。実際に通ったのは6年生のときだけだが、近所の貧乏長屋に亡き伯父夫婦が住んでいたので、小さいころからこの校庭で夕暮れまでよく遊んだものだった)

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