ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Patrick Modiano の “Missing Person”(2)

 先週は退職前の歓送会やら、財布を落とすやら!、何かとあわただしい毎日だった。
 さて、Patrick Modiano もご存じノーベル賞作家(2014年受賞)。「も」というのは、本ブログの数少ないリピーターのみなさまならお気づきのとおり、ぼくはこのところ、〈文学のお勉強シリーズ〉と称して、最近のノーベル賞作家の追っかけに励んでいるからだ。
 ぼくが Modiano の存在を知ったのは、なんと2年前。なにげにガーディアン紙の記事をながめていたら、ぼく好みの蠱惑的な表紙の本が目にとまった。それが "Paris Nocturn"(2003)。内容もたしかめずにジャケ買いしたところ、大当たり。ぼくは完全にノックアウトされてしまった(☆☆☆☆)。
 そこで初めて、Modiano がノーベル文学賞を受賞していること、それから、フランスでは "Modianesque"(モディアノ中毒)という言葉があることも知った。たしかに "Paris Nocturn" を読んだ直後は、またすぐ Modiano を読みたいなと思ったものだ。
 この "Missing Person" は1978年のゴンクール賞受賞作。前回、「ご存じ『冬のソナタ』の下敷きになった作品である」などと書いたのは、もちろん知ったかぶり。「冬ソナ」にはまったく興味がなかった(今もない)ので、へえ、という感想しか持ちようがない。
 ただ、すこぶる映画的な作品だな、という気はする。前半、記憶を失った老人が「訪れた人々はいちように過去を思い出し、悲哀と孤独をかみしめ、それがさらに老人の悲哀をつのらせる。いわば憂愁の輪舞である」。あ、これは往年の名画『舞踏会の手帖』だな、とぼくは思った。
 あちらはオムニバス形式で、こちらは輪舞形式という違いはあるし、もちろん訪問の目的も異なっているが、その訪問により過去と現在の落差、時の流れを感じさせるという点では一致している。
 後半では、やはり昔の名画『大いなる幻影』を思い出した。雪の山中、スイスを目指しての逃避行という設定が似通っている。ただし映画と違って、本書のエンディングは逃避行ではない。そこがぼくには少々不満だった。Modiano としては、絵に描いたようなロマンスを避けたのかもしれないが、おかげで尻切れトンボの感は否めない。
 また、「恐怖と緊張に満ちた瞬間も欲しかった」。せっかく「霧の中をさまようような、ミステリアスでメランコリックな雰囲気」に充ち満ちているのだから、その霧が晴れかかってきたとき、現在でも過去でもいいが、ヤバイ!という強烈なシーンがあってもよかったのでは。あ、でもそうすると純文学ではなく、ミステリになるのかな。
 最後に、お、これは、と心にしみる言葉を引用しておこう。... in life it is not the future which counts, but the past.(p.118) Scraps, shreds have come to light as a result of my searches ... But then that is perhaps what a life amounts to ...(160)
(写真は、青森旅行で乗った五所川原始発のストーブ列車)