ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

José Saramago の “Blindness”(3)

  おとといの夕方、旅行から帰ってきた。伊勢志摩~広島~宇和島をめぐる6泊7日の〈シマつながり〉の旅で、終点だけ観光地ではないがぼくの郷里。広島で乗ったタクシーの運ちゃんが野球ファンで、元メジャーリーガーの岩村宇和島東出身だということも知っていた。(写真は、広島のお好み焼きの有名店)

 出発前日まで4回目のコロナワクチン接種の副反応がつづき、それからもちろんコロナ渦での長旅とあって多少不安だったが、宇和島介護施設に入所中の母と面会する直前に受けた抗原検査では陰性。どこの観光スポットもたいへんな混雑だったけど、結果的に、行動制限は当面不要なのではと思った。
 旅の友は、スイスの作家 Robert Walser(1878 – 1956)の "Jakob von Gunten"(1909, 英訳1969)。といっても、実際に読んだのは移動の最中や就寝前だけだったので、いくらも進まなかった。それよりタブレットウクライナ関連のニュースに目を通すほうが多かった。
 この問題は侵攻直後とくらべ、明らかにメディアによる扱い量が減っている。ぼくも以前ほどネットでチェックしなくなった。読みたくもないほかの記事の見出しばかり目につくからだが、たまたまこんどの旅行で、いままで宝の持ち腐れだったタブレットを使ってみたところ、これは便利。「U」のキーを打つだけで「ウクライナ」と出てきて、該当するニュースだけ読めるようになっている。これからはふだんも活用することにした。
 以前、「コロナの時代の読書はどうあるべきか」というテーマで拙文を書いたことがあるけれど、いまはじつは、なにを読んでもウクライナのことが頭に浮かんでくる。本の楽しみかたとしては邪道かもしれないが、ひるがえって日本は、日本人は、このぼく自身はどうなのか、と考えるヒントになることが多い。その点、表題作は一石二鳥。コロナとウクライナ、どちらの問題にも直結する内容をふくんでいる。

 前回(2)では、娯楽SF『トリフィド時代』とくらべながら、人間自身が人間を襲う、危機を通じて人間性の本質が露呈する、という二点について補足した。今回は三つめのちがいについて。
 伝染性を疑われる「盲目病」の患者と濃厚接触者の「隔離施設内では、食料を独占してほかの入所者から金品を、さらには女性の身体まで要求する悪党一味も出現」。この一味のリーダーが拳銃を所持しているため、一味以外の入所者はうかつに手を出すことができない。女たちは、食料を得るため悪党に身をまかせるか、誇りや威厳を保つため空腹に耐えるか、男たちは、女たちに要求をのむよう説得するか、空腹をがまんするよう求めるか、いずれにしても「良識派は、飢えをしのぐか人間としての尊厳を守るか、悪党の言いなりになるか悪党を倒すか、という苦しい選択を迫られる破目になる」。
 拳銃を核兵器と置き換えただけで、こうした状況が現在のウクライナにそっくり当てはまることは明らかだろう。「このとき完全正解はありえない。悪人を殺しても殺さなくても、善人のままではいられないからだ」。こういうディレンマ、「道徳的な難問が提出されるのも(『トリフィド時代』との)大きな相違点のひとつ」なのである。
 このディレンマがどう解消されるか、というより、悪人を殺す殺さない、どちらの道がどんなかたちで選択されるかは本書の最大のハイライトだろう。ここで活躍するのが、最初に失明した男を診察した眼科医の妻である。
 じつはこの妻だけがなぜか「盲目病」に感染していない。登場人物がすべて視力をうしなってしまえば、事件を目撃し伝える語り手もいなくなり、作者はいわば神のごとき立場から第三者的に物語りつづけるしかない。それよりは、主観的な肉声が発せられるほうが強烈な作品に仕上がる。とそんな判断があったのかもしれないが、眼科医の妻の目が見えることをめぐっても、なにかと騒動が起こる。うまい設定だ。
 ともあれ、本書は「終末の世界でひとはどう生きるべきか、と深く考えさせられる傑作である」。こう書くとキレイゴトに聞こえるが、その内実は、服従か死か、悪人を殺すべきか殺さざるべきか、という道徳的難問にかかわっている。だからこそ、「ひるがえって日本は、日本人は、このぼく自身はどうなのか、と考え」ざるをえないわけだ。やはり傑作である。