大型連休前半終了。ぼくは前回の記事を書いたあと、初孫のショウマくんともども、愛媛の田舎に帰省していた。ホームに入寮中のひいばあちゃんにショウマくんを会わせるためである。
田舎はあいにく雨続き。一枚だけ撮った風景写真は、宇和島市内の道の駅〈きさいや広場〉の一角にある牛鬼展示館。牛鬼とは魔除けの山車みたいなもので、お祭りのときに市内を十数頭も練り歩く風習がある。
バッグにしのばせたのは、今年のブッカー国際賞最終候補作、Juan Gabriel Vásquez の "The Shape of the Ruins"(原作2015、英訳2018)。なかなか面白い。最初の数行を読んだだけで、これはイケそう、と思った。
その理由を書くには、一ヵ月以上も前に読んだきり落ち穂拾いをしていない Luis Alberto Urrea の "The House of Broken Angels"(2018)、および Rebecca Makkai の "The Great Believers"(2018)と較べるのがいい。「文学と政治」というタイトルで三冊をまとめられそうだからだ。
まず "The Great Believers" から。ぼくが興味を持ったのは、ご存じのとおり、同書が昨年のニューヨーク・タイムズ紙選ベスト5小説のひとつだからだが、実際に読んでみると、評価は☆☆☆。
かろうじて水準作という程度なのに、それがどうして年間ベストに食い込むのか、ぼくにはさっぱり解せない。ゲイとエイズを扱ったものだが、いわゆるLGBT問題がクローズアップされている昨今、タイムリーな作品であることが評価されたのだろうか。
さらにフシギなのは、その後、これが今年のピューリツァー賞最終候補作にも選ばれたこと。あちらの権威ある文芸評論家諸氏と、素人文学ファンのぼくの好みは明らかにズレている。
同書がいちばんいけないのは、「主人公のイェールとその〈恋人〉たち」が「最悪の結果が生じたとたん離れてしまう」ことから分かるように、「ゲイ自身の内面や人物関係の掘り下げが足りない」点である。これではいくらリッパなテーマでも、立派な小説にはならない。それどころか、「作者の関心はもっぱら政治的・宗教的な偏見や一般大衆の無知、無関心、医療・保険制度の不備といった周囲の環境へと向か」っている。それは前にも書いたように、一流の文学者の仕事ではない、とぼくは思う。それは一流かどうかはさておき、政治家や政治活動家の仕事ではないだろうか。 文学に政治を持ち込むな、と言っているのではない。どんな政治イデオロギーでも小説の題材になりうるし、どんな作家にもみずからの政治理念を自由に作品化する権利がある。けれども、そのイデオロギーや理念の正当性を主張するだけでは、小説としてのふくらみに欠け、生硬な作品に仕上がってしまう。ちょうど "The Great Believers" のように。
では、「小説としてのふくらみ」を出すためには、どうすればいいか。作者と、あるいは作者の立場を代弁する登場人物と意見が対立する人物を登場させ、しかも、その反対意見に相当な論拠をもたせることである。そうすることで、それぞれの人物の「内面や人物関係」がかなり掘り下げられる。
むろん、最終的には作者自身の主張が前面に押し出されていい。ただ、反論を併記すればするほど、その主張に説得力が、「小説としてのふくらみ」が増してくる。それが一流の文学者の仕事だと思う。
その点、Dostoevsky の諸作は、超弩級の政治小説ぞろいである。"Demons" ひとつ取っても、ぼくの考える「一流の文学者の仕事」がどういうものか察していただけることだろう。文学作品ではないが、Plato の "Gorgias" もすごい。善と正義を訴える「主人公」Socrates より、力の論理を唱える対話者 Callicles のほうに惹きつけられるくだりもあるほどだ。ここにディアレクティケー極まれり、である。

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そう、このディアレクティケーの欠如こそ、まさに "The Great Believers" の最大の難点だろう。それゆえ「内面や人物関係の掘り下げが足りな」くなるのである。
あれま、ぼくにしては珍しく一気呵成に記事を書いてしまった。"The House of Broken Angels" の落ち穂拾いと、"The Shape of the Ruins" の雑感はまた後日。