クラシック・ファンならご存じのとおり、きょうはモーツァルトの命日。ぼくも先ほどまで、手持ちのレクイエムを流しながら、2018年の Shadow Giller 賞受賞作、Eric Dupont の "Songs for the Cold of Heart"(2012)を読んでいた。
Shadow Giller 賞とは、カナダでもっとも権威ある文学賞、ギラー賞(Scotiabank Giller Prize)のファン投票版。2009年から2019年まで有名な文学サイト、KevinfromCanada で公開されていた。
ぼくもリンク先に設定している同サイトは、カナダの著名なブロガー、故 Kevin 氏が主宰。2016年の途中から、氏の没後も彼の友人たちによって運営されていたが、残念ながら、去年のギラー賞発表を最後に更新が途絶えている。中断であることを祈るばかりだ。
"Songs for the Cold of Heart" は当初、☆☆☆★★★くらいだったけど、だんだん目が離せなくなり、★をひとつ追加して、久しぶりに☆☆☆☆をうかがう出来ばえである。典型的なファミリー・サーガで、文芸エンタメといってもいいのだが、この前に読んでいた、いかにも純文学でござい、といった "Trust Exercise"(☆☆★★★)よりぼくはずっと好きだ。ただし大作で、ペイパーバックなのにやたら重く、持っているだけで疲れる。もうしばらく時間がかかりそうだ。
閑話休題。表題作はご存じのとおり、今年のピューリツァー賞受賞作。Colson Whitehead としては、これまたご存じ2017年の同賞受賞作、"The Underground Railroad"(☆☆☆★★)以来、2度目の受賞である。
同賞を2回受賞した作家は今世紀になって初めてで、ざっと調べたところ(チェックミスご容赦)、20世紀にさかのぼっても、William Faulkner(1955, 1963)、John Updike(1982, 1991)の2人しかいない。へえ、Colson Whitehead ってそんなにすごい作家だったのか。
それはさておき、"The Nickel Boys" はかなりトリッキーな作品で、ネタを割らずにレビューをでっち上げるのにひと苦労。そこで今回も当たりさわりのないように、上の前作との比較から始めよう。
ぼくは同書について、アメリカの奴隷制と人種差別という相当に古いテーマから「真に新しい物語をつく」るには、「人間を単純に善玉と悪玉に分けるのではなく、善悪の問題にかんして知的に誠実であること」という「メルヴィルの原点に立ち返」るしかない、という趣旨のことを書いた。
Colson Whitehead 自身にも古ネタ意識はあるようで、さすがに前作ほど斬新ではないにしても、こんどは「理想と現実という永遠の対立を従来のような直接対決ではなく、トリックを駆使して変則的に表現している点が新味」。その新味にかかわるくだりがここだ。Silence was all the boy ever got. He says, "I'm going to take a stand," and the world remains silent. Elwood and his fine moral imperatives and his very fine ideas about the capacity of human beings to improve.(p.205)
上に述べた事情で不得要領の引用にならざるをえないが、簡単にいうと、主人公の少年 Elwood は進歩主義者。「人間は困難に耐える力を有し、社会悪や不正義を糺して徐々に進歩することができる」と信じている。
で、文学の世界では現実世界と同様、進歩主義者はしばしば挫折する。その挫折の原因が本書の場合、「世界の沈黙」であるというわけだ。これも目新しいものではなく、沈黙の代弁者がだれか、沈黙がどう表現されるか、という点に本書の新味がある。ううむ、なんだか禅問答みたいだけど、すでにお読みの方ならお分かりだろう。
ともあれ、人間の進歩の努力にたいし、世界は沈黙している、と考えるのは懐疑主義であり、それゆえ上のくだりは、進歩思想と懐疑主義の対比を端的に物語っている。ここで問題は、「理想と現実という永遠の対立」を描くとき、たとえば "Moby-Dick" や "Billy Budd, Sailor" における直接対決のほうが、はるかにインパクトが強いということだ。
ひるがえって、"The Nickel Boys" では「世界の沈黙」がトリッキーに、つまりは間接的に表現されているぶんだけ、「懐疑主義のほうがかえって不鮮明になったきらいもある」。とはいえ、懐疑を鮮明に示すと従来のパターンとなり陳腐。むずかしいところだ。
なんだか Colson Whitehead の悩みが伝わってくるようだけど、それは創作上の困難をめぐるものであって、「善悪の問題にかんして知的に誠実であること」という「メルヴィルの原点」に発するものではないような気もする。どうでしょうか。
(下のCDは、きょう聴いたモーツァルトのレクイエムのひとつ)