いまでこそ、「なにから読むか、フォークナー」などと気どったタイトルの記事を本ブログに載せているが、じつは Faulkner を英語で読むようになったのは2000年の夏から。そう遠い昔ではない。
高校時代には翻訳で『八月の光』その他を読んでいたものの、大学に入ってから英語の勉強に使ったテキストは、イギリスなら Alistair MacLean, Dick Francis、アメリカなら Raymond Chandler, Ross Macdonlad など。つまりエンタメばかりで、そもそも純文学そのものから遠かった。
これではいかん、と一念発起したこともないではないが、それでも周囲でなにかと話題になっている Faulkner や D. H. Lawrence などには手を伸ばさなかった。あ、いや、さすがに "Lady Chatterley's Lover"(1928 ☆☆☆☆★★)は読んだけど、Faulkner はちょっと。猫もシャクシも Faulkner という当時の(あくまでぼくの周囲の)風潮がケッタクソわるかった。いま思うと、若気の至り、ヘソ曲がりの食わず嫌いというしかない。
それから月日が流れて2000年の夏。キャンプ中に "Anna Karenina"(1873–7 ☆☆☆☆★★)を読んでノックアウト。すっかり海外文学にハマってしまい、読書記録によると、その夏7冊目の洋書が "Light in August"(1932 ☆☆☆☆★)だった。
さらに20年以上たった今年の6月に読んだのが表題作(1962 ☆☆☆★★★)。13冊目の Faulkner である。こうして Faulkner 体験を綴ってみると、そのお粗末ぶりに気が滅入ってしまう。
これが Faulkner 最後の長編で、刊行の翌年、彼は死後に本書で "A Fable"(1954 ☆☆☆★★★)以来二度目のピューリツァー賞受賞。1969年、"The Reivers" はスティーヴ・マックィーン主演で映画化され、邦題は『華麗なる週末』(未見)。と、そういった豆知識は読後に仕入れたものだ。
13冊目にして初めて実感したことがある。「フォークナーは死の直前まで、善と悪の二元論に立脚していたのである」。もしかしたら定説かもしれないけれど、いままでそのことを本書ほど強く意識しながら読んだことはなかったような気がする。
本書の主人公、11才の少年 Lucius は祖父の自動車を盗んで冒険の旅に出かけるが、旅の途中、ときおり良心の呵責にさいなまれ、なにかと Virtue と Non-virtue のことを口にする(p.54など)。
やがて旅がおわり、帰宅した Lucius と祖父の会話がこうだ。"I lied," I said./ "Come here," he said./ "I cant," I said. "I lied, I tell you."/ "I know it," he said./ .... "What?" I said. "How can I forget it? Tell me how to."/ "You cant," he said. "Nothing is ever forgotten. Nothing is ever lost. It's too valuable."/ "Then what can I do?"/ "Live with it," Grandfather said./ "Live with it? You mean, forever? For the rest of my life? Not ever to get rid of it? Never? I cant. Dont you see I cant?"/ "Yes you can," he said. "You will. A gentleman always does. A gentleman can live through anything. He faces anything. A gentleman accepts the responsibility of his actions and bears the burden of their consequences, even when he did not himself instigate them but only acquiesced to them, didn't say No though he knew he should. ...."(pp.294-295)
ぼくはこのくだりを読んだ瞬間、思わず胸が熱くなった。この I とはもちろん Lucius だが、これを記述しているのは56年後の Lucius である。「大人になることとは、悪を知ること、罪の意識をもつこと」であり、「その穢れを死ぬまで忘れないのが紳士である」と、「まるで年老いたフォークナーが、少年時代の自分に言い聞かせているようだ」。
と評したのは、本書が Faulkner の自伝的作品らしいという豆知識を仕入れてのことだ。ともあれ Lucius の場合のように、「悪を知る心は善なるものだが、知ることで心の悪が消えさるわけではない」。こうした善と悪の二元論こそ Faulkner の中心思想のひとつではないか、と遅まきながら考えついた次第である。
善悪二元論とは、理想を見すえながら現実を忘れない、忘れないが理想も捨てない、ということでもある。若ければ、そんな観点から Faulkner の諸作をもういちど読み返すところだが、もはや前期高齢者のぼくにはしんどすぎる。ああほんと、学生時代にもっと勉強しておくべきでした。