ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

William Faulkner の “Requiem for a Nun” (2)

 落ち穂拾いをしないといけない本がずいぶんたまってしまった。記憶や感動が薄れないうちに早く補足したほうがいいに決まってるのだけど、毎度へたくそなレビューもどきでも、じつはでっち上げるのに相当時間がかかり、昔とちがって、アップにこぎ着けた時点で疲労困憊。(1)だけでじゅうぶん、と思うことが多くなった。
 表題作にしても、読んだのはなんと1ヵ月以上も前。ふつうならもうとっくに内容を忘れているころだ。が、じつはこれ、高2のとき、富山房版フォークナー全集で邦訳を読んだことがある。もちろん、どんな感想だったか当時の記憶はほとんどない。『尼僧への鎮魂歌』というイワクありげなタイトルに惹かれ、なにがなんだかわからないけど、とにかく読後頭がボーっとしたようなおぼえがあるだけだ。
  というわけで、このたび原書で読んでみて、これが『サンクチュアリ』の続編だと知り、驚いた。そんなイロハさえ忘れていた。いや昔もそう認識したおぼえがない。(『サンクチュアリ』をはじめて読んだのは中2のとき、筑摩書房版世界文学全集で)。もし今回、とりわけ人物関係にかんする予備知識があれば、多少はもっと読みやすかったかもしれない。
 というのも、ぼくが原書で "Sanctuary" を読んだのは、記録によると2003年の夏。だから同書で起きた事件がいくらこの続編で紹介されても、ああ、そうだったっけ、と当初はピンとこなかった。そんなアホな失敗をしないためには、"Sanctuary" を読んでから、それほど間隔をおかずにこの "Requiem for a Nun" に取り組むにかぎる。ぼくのように、実質的に本書から手をつけるのは、かなりしんどい。

 なにしろ、オバマ大統領が引用したことで知られる、"The past is never dead, it's not even past." という例のことばが示すとおり、ここでは「永遠に解決することのできない道徳的難問が提出される。罪は苦しむことで償えるのか。罪を赦し、赦しを受け容れることは可能か。もし償いも、赦しも、赦しの許容もありえないのなら、そこには苦しみしか残らなくなるが、そのとき苦しむ者に神の救いはあるのか」。
 そんなの昔のことじゃん、忘れてしまえばいいじゃん、と日本人なら言いたくなるところだが、つまり「テンプルの罪へのこだわりはキリスト教文化圏以外の読者には異様とも思えるほどだが」、彼らは忘れないのである。「さほどにおのが罪の深さと救いのなさに絶望するということはとりもなおさず、同じく上の読者にはうかがい知れぬ、超絶的なまでに崇高な善への希求があるということでもあろう」。
 いやはや、こんなに深い内容が高校生のぼくに理解できたはずは、ぜったいない。だからこそきっと、「読後頭がボーっとした」のだろうと、いまにして思う。いや、そのいまでさえ、ほんとうに理解しているかどうか。いちおう、「本書は、そうした二律背反への鎮魂歌として、矛盾に満ちた人間性を深く洞察したフォークナーの思想を物語る作品である」と、いかにもわかったような口ぶりでまとめてみたけれど、だから素人は困るんだよね、というフォークナー専門家の苦笑いが目に浮かんできそう。ま、それはそれとして、とにかく高校時代以来の宿題をやっと片づけた、という自己マンにひたることにしましょう。

(下は、この記事を書きながら聴いていたCD)

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