ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Nikos Kazantzakis の “Zorba the Greek”(2)

 先週、話題のジブリパークに行ってきた。いまは先着申込み順になっているらしいけど、昨年11月だったか、家人が応募したときは抽選。「ジブリの大倉庫」と「青春の丘」を引きあてた。超ラッキー、と知人たちにうらやましがられたものだ。
 ぼくはジブリ大ファンというわけではなく、全作観ているわけでもないけれど、もちろん好きな作品はいくつかある。その程度の興味で見物した感想を述べると、まあ一見の価値あり。が、近くならまだしも、二度の遠出はちょっとね、と思った。
 それでもちゃっかり、大倉庫のギフトショップで自分用のみやげに絵はがきと、ナウシカガンシップのプラモを購入(でも、いつ組み立てるんだろう)。店内は大混雑で、もしこんどの旅行でコロナをもらうとしたらきっとここだろうな、と思ったほどの3密ぶりだった。(写真は、『コクリコ坂から』のカルチェラタン・哲学研究会の部室)

 閑話休題。表題作については、今回実際に読んでみるまで、映画『その男ゾルバ』の原作ということしか知らなかった。その映画もいつだったか、たしかBSで録画しただけで、そのうちハードディスクがぶっ壊れてしまい、いまだに未見。
 そこで本書の読後調べてみると、ゾルバを演じたのはかの名優アンソニー・クインではないか。アンソニー・クインといえば、なんといっても『道』の大道芸人ザンパノ役が強烈に印象にのこっている。幕切れで、旅まわりに連れ歩いた、ジュリエッタ・マンシーナ演じるジェルソミーナの死を知って泣きくずれるあのシーン、そして流れるあのテーマ曲。
 そんなザンパノと、"Zorba the Greek" の「傷つきながらも人生を肯定して踊るゾルバの、深みのあるコミカルな姿」が、ぼくの頭のなかではみごとに重なり、アンソニー・クインは「風貌的にもキャラ的にもさぞ適役だったものと思われる」。
 ただ、映画と原作とではちょっとちがう点もあるのでは、とも思った。映画はたぶんタイトルから連想されるとおりの内容のはずだが、原作のほうは Zorba だけでなく、Zorba をクレタ島の鉱山開発監督に雇った「私」、無名の話者もほぼ対等の存在で、ダブル主演といってもいいほどだ。

 それが映画では助演となっているのはムリもない。My life is wasted, I thought. If only I could take a cloth and wipe out all I have learnt, all I have seen and heard, ...(p.81)I went over my whole life, which appeared vapid, incoherent and hesitating, dream-like. I contemplated it despairingly.(p.131)Writing Buddha was ... a life-and-death struggle against a tremendous force of destruction lurking within me, a duel with the great NO which was consuming my heart, and on the result of this duel depended the salvation of my soul.(p.146)
 このように吐露された「私」の心情を映像化するのはほぼ不可能だろう。ぼくに思いつくのは、ベルイマン作品のようにスクリーンいっぱいに映しだされた顔の超アップで、その人物の a life-and-death struggle を暗示する方法くらい。しかしそれを観客がどう受けとめるかは疑問。へたにセリフをいれると、『地獄の黙示録』のカーツ大佐とウィラード大尉の対話みたいに、なにやら深遠そうなことをしゃべってるだけってことになりそう。あの場面、つまらなかった。
 その点、活字だと上のようにちゃんと説明できるので便利だが、本書の場合、「私」は頭のなかでいろいろ考えるだけでなく、「なにもかも陽気に笑いとばす強靱な精神力」の持ち主で「熱い男」でもある Zorba にしだいに感化される。それがユーモラスなやりとりから読み取れ点がおもしろかった。I stopped, ashamed. That is what a real man is like, I thought, envying Zorba's sorrow. A man with warm blood and solid bones, who lets real tears run down his cheeks when he is suffering; and when he is happy he does not spoil the freshness of his joy by running it through the fine sieve of metaphysics.(p.269)
 その Zorba も「私」同様、じつは「心に傷を負い、その傷とはまたべつに心中にひそむ悪魔を気にかけている」。I've a kind of devil inside me, too, boss, and I call him Zorba!(p.158)
 これまた視覚に訴えるのはむずかしい内容だが、この devil の正体はおそらく、上に引用した a tremendous force of destruction lurking within me ... the great NO which was consuming my heart と同じだろうと思われるものの、その後、必ずしも明らかにはされていない。それがちと残念だった。