ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Dino Buzzati の “The Tartar Steppe”(2)

 きょうは近所の夏祭り。盆踊りはなかったけど、夕方、出店の前は長蛇の列だったらしい。けれど三軒先に住むドラ息子がコロナに感染したので、初孫のショウちゃんは濃厚接触者。お祭りに連れていくわけにもいかず、ぼくは家で一杯やりながら Amazon Prime で『散り椿』を観ていた。
 ジムの行き帰りにバスの車内で読んでいる "The Netanyahus" はあとまだ少し。雪の降るなか、大学の新米講師時代の主人公 Ruben Blum の家を、中世スペインの異端審問が専門の歴史学者 Ben-Zion Netanyahu が妻子ともども訪問。彼らの傍若無人ぶりに Blum 夫妻が翻弄される場面がホームコメディで笑える。が、Netanyahu がユダヤ人迫害の歴史について語る内容はシリアスで、ジムで走ったあとなど、すぐに眠りこけてしまう。
 閑話休題。表題作が映画化されていたとは、レビューを書こうとして Buzzati のことを調べるまで知らなかった。監督はヴァレリオ・ズルリーニ。彼の作品は『鞄を持った女』(1961)しか観たことがない。ルイジ・コメンティーニ監督の『ブーベの恋人』(1963)もそうだったが、あのころのクラウディア・カルディナーレは清純な愛のイメージにぴったりでしたね。
 さて、かんじんの『タタール人の砂漠』はというと、少なくとも日本ではDVDは未発売のようだ。そこで映像は想像するしかないのだが、ぼくの目の前に浮かんでくるのは、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督の『テオレマ』(1968)。あの荒涼としたエトナ火山の風景が、"The Tartar Steppe" に出てくる北の辺境の砂漠にかなり近い。『テオレマ』、ぼくは北米版ブルーレイで観たけど、日本でももうすぐ4Kスキャン版が発売されるそうだ。

 あれあれ、きょうは映画の話に脱線ばかりしている。でも弁解すると、"The Tartar Steppe" はとても映画的な作品なのだからムリもない。「青年将校ジョヴァンニ・ドローゴが辺境の砦に配属。北の砂漠を越えてタタール人が襲来し、みずから英雄となる日を期待するものの、戦争はいっこうに起こらない。兆しはある。はるか彼方で動く黒い点は目の錯覚か、それとも前進する軍団か。まさに映画的で絵になる光景」である。
 このシーンで思い出したのが、『明日に向って撃て!』(1969)。強盗のポール・ニューマンロバート・レッドフォードを追跡してくる保安官たちの一行が、いったんダマされたかと安心したら、やっぱりしつこく追いかけてくる。あの闇夜に光る松明の動きが、上の「はるか彼方で動く黒い点」とよく似ている。
 ともあれ、Drogo は人生の不条理という「内なる砂漠」を心に秘めたまま生きている。"The Tartar Steppe" は、Drogo の「内なる砂漠」と、彼の眼前にひろがる辺境の砂漠という「外なる心象風景とのコントラストが鮮やかな傑作である」。そのコントラストがすこぶる映画的なのだけど、クラウディア・カルディナーレにふさわしい場面がほとんどなかったのがちと残念でしたね。