ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

José Saramago の “Blindness”(2)

 きょうの午前中、4回目のコロナワクチン接種を受けた。2・3回目のときの副反応からして、今回も8度以上の熱が出そう。なんだかもう頭がボンヤリする。ひどくならないうちに手っとりばやく記事を書いておこう。
 表題作は以前から、タイトルどおり、「ある日突然人びとがつぎつぎに失明する」という大筋だけ知っていた。へえ、フシギな話だな、いったいテーマはなんだろうと気になっていたが、まさか昨今のコロナ渦に直結する内容だとは夢にも思わなかった。
 似たような設定のSFに、『トリフィド時代』(1951)という作品がある。流星雨を見た世界中の人びとが視力をうしなったところへ、旧ソ連がひそかに開発していた新種の植物の種子が、飛行機事故のため全世界に拡散。それがトリフィドという巨大な食肉植物に成長し、盲目となった人びとに、つぎつぎに襲いかかる。

 この映画の予告編で見たトリフィドの姿はとても恐ろしく、邦訳で読んだ原作(旧題は『トリフィドの日』)もかなり面白かった。だから、ポルトガルノーベル賞作家 José Saramago(1922 – 2010)が書いた "Blindness"(1995, 英訳1997)のほうは、『トリフィド時代』とどこがどうちがうんだろう、という関心もあった。

 相違点のひとつは、「盲人たちを襲うのが食肉植物という人間以外の存在ではなく、人間自身であること」。具体的にはまず、赤信号で停車中のドライバーが突然失明したあと、ドライバーの妻や、彼を診察した眼科医など、周囲の人びとがつぎつぎに盲目となる。その結果、「政府は失明の伝染性を疑い患者や濃厚接触者を隔離する」。
 この隔離体制が非常に厳格で、某国の大都市のロックダウンそっくり、いやそれ以上だ。なにしろ軍が出動し、被隔離者が施設から出ないように四六時中監視。直接的な接触を避けながら食料を届けるというもので、おのずと配給量は不足し、遅配も生じた結果、「施設内で食料の争奪戦が勃発。また監視中の兵士がパニックを起こして銃を乱射する」。
 レビューではカットしたが、この「盲目病患者」たちはトイレがどこにあるかわからない。わかっていてもたどり着けない。そのため施設内では深刻な衛生問題も発生する。わかりやすくいえば、どこもかしこもクソだらけ。こう書くと笑い話に聞こえるが、実際はたいへんな事態だ。これと食糧問題、それからもちろん生存の問題は、大災害や戦争などで一般市民が直面する典型的な危機である。
 つまり当初、「盲目病」というアイデアは奇抜で非現実的なものに思えるが、やがてそれがすこぶる現実的な設定だったことがわかる。ゆえにこうした「危機にさいして本能的、動物的に行動する人びとの姿」も非常に説得力がある。まずオレに食うものをくれ、というのは善悪を超えたエゴイズムの発露だろう。善悪は、エゴイズムをどうコントロールするかによって決まる。上の眼科医の妻はこう述べる。If we cannot live entirely like human beings, at least let us do everything in our power not to live entirely like animals.(p.111)
 この妻に賛同する人びともいる一方、もちろん entirely like animals という人びともいて、本来ひとりの心のなかにある「理性と本能、良心と欲望のせめぎあい」が表面化。いわば良心派と野獣派の衝突も起こり、それがますます混乱に拍車をかけている。これまた現実にじゅうぶん起こりうる事態であり、The doctor's wife said to her husband, The whole world is right here.(p.94)
 このように、「危機を通じて人間性の本質が露呈するところに、上の娯楽作品(『トリフィド時代』)との決定的なちがいがある」。むろん『トリフィド時代』でも人間がどんなものかは描かれていたはずだけど、少なくともそれがテーマではなかったようだ。
 あとまだひとつ重要な相違点があるのだけど、ここまででずいぶん長くなってしまった。つづきは副反応がおさまったときにでも。