今年は年始からずっと十九世紀の古典巡礼に出かけていたが、さすがに疲れた。先月の Wilkie Collins でしばらくお休みにしよう。
訪れた巡礼地はつぎのとおり。
ぼくが海外の純文学にハマったのは、なんどか書いたが、"Anna Karenina"(1873 ☆☆☆☆★★)を Penguin Classics で読んでから。忘れもしない2000年の夏だった。
それまで洋書といえばエンタメ系ばかりだったので、夏休みだし、このへんでそろそろブンガクでも、と思ったのがきっかけだったような気がする。なぜ "Anna Karenina" かは憶えていない。
ともあれ、英文科の学生さんでもないかぎり、いきなり古典から洋書に親しむひとは少ないのではないか。まずミステリとか絵本、ファンタジーあたりを手に取るのがふつうだろう。
馴れてきたところで最近のベストセラー、話題作、映画化作品。あ、たぶんこの三つ、カブってますな。
そこから十九世紀はもちろん、Joyce とか Faulkner とか、二十世紀の名作にたどり着くまでには相当な時間がかかるはずだ。さかのぼっても、とりあえずエンタメ系のほうが多いのでは。
と、もしそんな洋書ファンが実際にいるとして、そのひとが「このへんでそろそろブンガクでも」と、ぼくのように十九世紀の古典巡礼に出かける場合、なにから読むか。
上のリストは、ひとつの参考になると思います。
むろん、Dickens や Emily Brontë など読み洩らしが多い。というか、今回は大作ほど敬遠してきた。それはまたべつの機会、(たぶん)来年、第二期古典巡礼のお楽しみに取っておきましょう。
それにしても、古典を読むと、当たり前の話だが、ほんとうに勉強になる。ぼく自身、レビューをでっち上げるべく、チェスタトンやエリオットの著作を(拾い読みだが)再読する必要に迫られた。いくらでっち上げでも、最低の努力はしないとなにも書けない。
それから、古典を勉強すると、現代文学を読む目がちょっと変わってくる。たとえば、いま読んでいる "My Friends"(2024)だけど、ここでこんな展開になったのは、たぶん作者がこう考えたからだろうな、と(勘違いだろうけど)創作事情を推し測ることがある。巡礼前は、そんなこと、あまり気にしなかった。
上に「なにから読むか」と書いたが、じつは、そうだ、大好きな『嵐が丘』を原書で読んでみよう、などと思い立つのがいちばん。ぼく自身、「ぼくの古典巡礼(2)」の一冊目に取りかかるのは、きっとそんな瞬間でしょうな。