ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Barbara Kingsolver の "Prodigal Summer"

 ただでさえ貧乏暇なしなのに、師走が近づいてくると輪をかけて忙しく、ゆっくり本を読む時間がない。そこで今日も昔のレビューでお茶を濁すことにしよう。

[☆☆☆☆★] 古来、西欧人にとって自然は征服の対象だった。むろん、文学の世界では早くから自然描写を得意とする作家が何人もあらわれたが、一般的には長らく文明と自然の対立という図式に大きな変化はなかったように思う。ところが1962年、レイチェル・カーソンが『沈黙の春』を発表。以来、環境保護運動が世界的に広がったのは周知の事実だ。それからほぼ40年後に登場した本書は、エコロジーの問題を採りあげ、自然を人間にとって共存の対象としてとらえた本格的な小説として文学史にのこる傑作である。生硬な主義主張はみじんもない。アパラチアの山中と農場で暮らす人びとを中心に、人生の有為転変、悲喜こもごもが説得力ある筆致で描かれ、家族とは、夫婦とは、隣人とは、恋愛とは、という問いがつねに発される一方、そうした人間の営みと並行するかたちで、動植物をはじめ自然の営みが愛情をこめて詩情豊かに謳いあげられる。さまざまな対立や誤解もあれば、激しい情熱や心温まる交流もある人びとの動き。断じてたんなる背景ではなく、あくまでも人間生活に密着した草花や虫、鳥や動物の生活。そしてひとは自然の移ろいを見て、おのが人生を顧みる。以上のような文脈のなかで生態系のもつ意味が語られるのだ。名作のゆえんである。

 …ぼくがこの一年間で5つ星(後記:アマゾンに発表した当時の評価)をつけた数少ない作品の一つだ。ローカル・ピース大好き人間のぼくだが、それでも Kent Haruf の "Plainsong" や本書のような傑作に出会うと、これは単なるローカル・ピースではないと言いたくなる。「単なるローカル・ピース」とは、地方の生活や風物を背景にごく普通の人情を描いた作品というくらいの意味で、先週読んだ Pamela Carter Joern の "The Floor of the sky" などが該当する。
 ジョーアンとキングソルヴァーを較べると、作家としての力量の差はあまりにも歴然としている。まず人物の描き方が全然違う。たしかに "Prodigal Summer" に出てくる面々も、特にユニークな性格の持ち主というわけではなく、どこかで読んだことのあるような人物ばかりとさえ言えるかもしれない。が、例えば、アパラチアの山中でコヨーテの観察を始めた主人公の女性動物学者が紹介される様子はどうだろう。まるで動植物の息吹が感じられるような自然描写と、自然界に密着した中で彼女が経験する事件の報告を通じて、その性格や心理が次第に浮かびあがってくるのだ。そこにはヘミングウェイの "Big Two-Hearted River" を思わせるものがあり、ストレートな表現が多くて凡庸なジョーアンの人物造型とは雲泥の差である。
 こういう手法で練り上げられた登場人物の心中には当然、葛藤が渦巻いている。それが生きた人間のあかしなのだ。しかも "Prodigal Summer" の場合、その葛藤は虫や鳥、動植物などの生活と連動している。ぼくの乏しい読書体験では、こんな形で自然と人間が結びついた作品に接するのは初めてであり、一年前に読んだ本なのに、こうして記憶をたどりながら感想を綴っていても熱い感動がよみがえってくる。
 それなのに翻訳はまだ出ていない。二、三、編集者に声をかけてみたのだが、すげない返事ばかり。『ポイズンウッド・バイブル』の売れ行きが思わしくなかったのだろうか。日本では、先に紹介された本が売れなければ、その作家がふたたび陽の目を見ることはまずない。ともあれ、ぼくの駄文がどこかの篤志家の目にとまり、それがきっかけで日本の一般読者も本書を読めるようになる日が来るのを祈るのみだが、こんなマイナーな日記ではとうてい無理だろう。