ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Joyce Carol Oates の “Wonderland”(1)とワンダーランド四部作

 きのう、1972年の全米図書賞最終候補作、Joyce Carol Oates の "Wonderland"(1971)を読了。周知のとおり、これは〈ワンダーランド4部作〉の掉尾を飾る作品でもある。既読3作のレビューもあわせて再録しておこう。

[☆☆☆★★★] ああ、よかった! 半世紀近く前の旧作なのでネタを割るが、本書はかすかな希望をのこして幕を閉じる。それゆえ最悪の結果ではないところに救いがある。20世紀中葉、アメリカ東部を舞台に貧乏白人ジェシの成りあがる物語だが、むろんサクセスストーリーではない。彼は終始一貫、家庭の悲劇に巻きこまれる。まず少年時代は両親や姉妹との軋轢。ゆるやかな滑りだしだが精密な心理描写に感嘆するうち、突然ショッキングな事件が発生。この転調には息をのむばかり。やがて孤児となったジェシは、養子先の夫婦の断絶という悲運に見舞われる。ここでも各人物の造形は精緻をきわめ、そのキャラクターゆえに起こる激動の渦が非常にリアル。第二部、苦学生からインターン、そして医師へと進んでいく道の起伏も激しい。極貧と恋愛の織りなす青春はポール・オースターの原形ともいえるが、恋がたき同士の対決や、昼夜を問わぬ激務から生じる夫婦の衝突、にわかに吹き荒れる愛の嵐など、やはり突発的な事件で一気に緊張が高まるところにオーツらしさがある。「夢見るアメリカ」と題された第三部では、父親の立場から親子の断絶を経験。ケネディ暗殺やヴェトナム反戦運動、ヒッピーといった当時の社会的背景のもと、夢を実現させたはずの人間もまた運命に翻弄されつづける。貧乏白人の半生を通じて、絶望的ではないが過酷なアメリカの現実を描いた家庭小説である。

“A Garden of Earthly Delights”(1968年全米図書賞最終候補作)

[☆☆☆☆★] 人間の魂はマグマのようなものかもしれない。ふだんは地下深くで蠢動しているため、その動きが目に見えない。が、やがて不穏な兆候があり、ある日突然、噴出爆発する。本書でなんどか起きる「魂の爆発」には、陳腐な形容だが息をのむばかりだ。怒り、暴力、情欲、実存の叫び。ただ事件そのものは意外に単純で、乱闘やメロドラマ、家庭の悲劇といったところ。また途中の風景としても平凡な日常生活がつづく。しかしそこに登場する人物はそれぞれ身分や階層、立場が微妙に、あるいは決定的に異なり、ささいな言動にも感情的な対立が読みとれ、どの場面もいわば「日常のスリル、日常のサスペンス」に充ち満ちている。その軋轢が明らかにされるとともに緊張が少しずつ高まり、やがて一気に爆発。最初の噴火がかなり早い段階で起こるため、あとはどの要素がどうからみ、どんな大事件へとつながるのか、固唾をのんで見守るしかない。実際にはなにもなくてもサスペンスがつのる「ジョーズ効果」さえある。彼らの対立は人生観や世界観の相違から生じるものではなく、その意味での深みはない。が、その代わり、平凡な毎日を送る者同士の激突という点で、ここには人間の生々しい現実が描かれている。主役は当初、貧しい白人の農場労働者。その三世代にわたる家族が第二次大戦をはさむ20世紀中葉、社会の底辺から次第に這いあがっていくうちに数かずの事件に遭遇する。彼らの「生々しい現実」とは、そのままアメリカの生活史でもある。

“Expensive People”(1969年全米図書賞最終候補作)

[☆☆☆☆] 世間一般に信じられている「真実」とは真実ではなく、じつは虚偽にほかならない。これは21世紀の現代でも、ひょっとしたらどの国にも当てはまる真実かもしれない。その意味で本書は、1960年代の作品ながら、すこぶる今日的なフィクション、正確にはメタフィクションである。18歳の少年が七年前に犯した殺人を回想。幼少期から事件にいたる経緯を実録として記述する一方、その解説や分析、さらにはメディアに載った(むろんフィクションだが)本書の批評記事なども紹介される。また少年の母親である作家の短編を挿入、彼女をアメリカ文学史のなかで位置づけるといった虚構の現実化も行なわれるなど、本書はいまなお文学における野心的かつ刺激的な試みとしての価値をうしっていない。それどころか、その文学的実験が単なる技巧上の問題にとどまらず、現実と虚構の関係を深く掘りさげつつ、俗悪な通念の浅薄さ、欺瞞を容赦なくあばき出すところに普遍性がある。オーツ自身のあとがきによれば、本書は発表当時、アメリカの直面する現実を象徴的に描いた作品として認められたそうだが、もしそれだけなら一過性のものであり、「今日的なフィクション」とはいえまい。上述したメタフィクションの技法を最大限に駆使しながら、いわば必然性のあるメタフィクションとして時代を超えた真理に到達している点こそ、最も評価されるべきである。蛇足だが、少年や両親など登場人物の精密な造形、劇的展開といった伝統的な小説技術においても出色の出来であることは言を俟たない。

“Them”(1970年全米図書賞受賞作)

[☆☆☆☆★] 作者のあとがきによれば、「彼ら」とは貧乏白人のことだという。たしかにこれは、1930年代から60年代にかけた貧乏白人一家の年代記である。が、その時々の主人公が自分以外の家族をしばしば「彼ら」と呼んでいる点も見逃してはなるまい。愛してはいるが異質の存在でもある家族。その近くて遠い、遠くて近い関係は家族のみならず、人間存在の断絶とその超克をめぐる葛藤にもつながっている。それが本書の読みどころだ。舞台はデトロイト。娘時代の母親の話にはじまり、その息子と娘が交代で主役をつとめながら成長するうちに事件が起こる。うねるようなサイクルだ。さりげない出だし、次第に高まる緊張、予想外の衝撃的な結末。そしてまたつぎの波が静かに押し寄せてくる。緻密で繊細な描写に支えられたストーリーテリングは超一流の名人芸である。そこへふと、オーツ自身の自己批評かと思えるような現実が紛れこむ。奇をてらった趣向ではなく、フィクションを現実化しようとするメタフィクションであり、巻頭の作者注とあわせ、上の各エピソードがいっそう迫真性を増す仕掛けとなっている。やがて1967年に実際に起きたデトロイト暴動。当時のアメリカを震撼させた大事件だが、オーツの関心はむろん政治や社会ではなく、人間存在そのものへと向かう。自分は「彼ら」の一員なのか、それとも彼らはやはり「彼ら」なのか。そのあたりの記述が若干もの足りないが瑕瑾。ともあれ家族にかぎらず、「近くて遠い、遠くて近い」相手との関係は、すなわち自分と、おのが心中のもうひとりの自分との関係に等しい。本書に登場する若者たちはみな魂の自由を望み、自己を確立しようとしている。他者との断絶とその超克は、同時に自己の分裂とその超克でもある。こうした内面の葛藤を劇的展開のうちに描いてこそ、名作は生まれるのである。