朝はノーマン・メイラーのことを書いていたので読了が遅れたが、今年のアレックス賞受賞作の一つ、Pamela Carter Joern の "The Floor of the Sky" を午後になって読みおえた。
The Floor of the Sky (Flyover Fiction Series)
- 作者: Pamela Carter Joern
- 出版社/メーカー: Bison Books
- 発売日: 2006/09/01
- メディア: ペーパーバック
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…印象的な表紙の写真に惹かれ、かなり期待して読みはじめたのだが、残念ながら、同じく今年のアレックス賞を取った Ivan Doig の "The Whistling Season" には遠く及ばない作品だった。これまたぼくの大好きなローカル・ピースなので、多少は大目に見たいところだが、贔屓の引き倒しはよくない。
両者の差はいくつかあるが、一つには、ドイグのほうが存在感のある人物を造型している点である。「存在感がある」とは曖昧な表現だが、要は、生きている人間かどうかということだ。生きた人間なら、良かれ悪しかれ内面にさまざまな要素を併せもっている。その矛盾を描くことで陰影が生まれ、存在感も増してくるわけだ。
むろん、人間の矛盾点を複数の人物に配分する方法もあるが、この問題を掘り下げると今日一日では書ききれなくなるので話をドイグに戻すと、例えば主人公の子供は、乱暴者の少年に対して敵愾心を抱きつつ、その身をいとおしむかのような友情も感じている。しかも、そうした反対感情をストレートに表現するのではなく、事件に託してそれとなく匂わせているところがドイグはうまい。
その点、ジョーアンの描写は上記の意味で陰影に乏しい。老婦人と長年対立し続けたはずの養女が最後にあっさり和解の涙を流す場面など、粗筋でも紹介しているような筆致で唐突すぎ、必然性を読みとることができない。孫娘と従兄の関係も同様で、お互いに感情を吐露しているだけの話であり、その感情が表に出るまでの心理が丹念に書きこまれていない。
以上の二例は副筋から挙げたものだが、"The Floor of the sky" にはこういう安手のメロドロマのオンパレードのような挿話が多すぎる。それどころか、老婦人が娘時代に巻きこまれた悲劇でさえ劇中人物の造型は表面的で、それぞれ心の中にあるはずの葛藤が示されていない。家族に限らず人間の断絶、確執を主筋に据えるからには、内面的な葛藤の描写が必須である。それを書きこんでこそ、最後に得られる和解にも説得力が生まれるのだが、ジョーアンは登場人物が涙を流せば読者に伝わるものと勘違いしている節がある。
小説の評価基準にこだわる余り、つい辛口の批評になってしまったが、ぼくのように理屈をこねなければ、けっこう楽しめる作品だと思う。老婦人を秘かに見守る牧場の雇い人の話など、なかなか味があっていい。これをもっと前面に押し出せば、作品に深みが増したのではないだろうか。