前々回からの流れで、Adichie の "Half of a Yellow Sun" に触れざるを得なくなった。以下は、オレンジ賞の発表前に書いたレビューである。
[☆☆☆☆★] 06年度の全米批評家協会賞は惜しくも逃したが、こんどは07年度オレンジ賞の最終候補にノミネート。受賞結果はさておき、アディーチェが人間存在の本質を見据えた第一級の作家であることは間違いない。舞台は60年代のナイジェリア、イボ族の虐殺に端を発したビアフラ戦争。慄然とするような殺戮シーンをはじめ、戦争の恐怖、民衆の悲惨な生活がビアフラ側の視点から描かれる。が、これは断じて教条主義的な政治小説、反戦小説ではない。難民を難民というだけで美化することなく、人びとが欲望のおもむくままに行動する姿を冷徹なまでにあばき出している。しかも、戦争が人間を野獣に駆り立てるといった図式的な見方を排し、「戦争で別人になるかどうかは本人の問題」と指摘。人間性への鋭い洞察と同時に、じつは深い信頼を示した言葉でもある。こうした洞察と信頼ゆえに小説としての奥ゆきが生まれ、平和な時代における男と女、姉と妹、主人と召使いといった日常的な関係の感情のもつれが面白く、戦争開始後、その関係が変化するようすも真実味があって感動的なのである。気の遠くなるほど重い小説だが、ビアフラの国旗を意味する題名どおり、かすかな希望も示される。けれども、安易な救いは一切ない。戦争と人間の現実を直視した傑作である。 めでたく受賞したあと、日本の新聞にも書評が載ったそうだから(ぼくは未読)、今さら採りあげるまでもないと思ったが、このところ戦争文学の話題を続けていることだし、何しろ慢性多忙症の毎日なので、これでお茶を濁すことにした。
この小説を読んでいて、わが意を得たりと思った箇所がある。それが上述の「戦争で別人になるかどうかは本人の問題」というくだりだ。Irene Nemirovsky の "Suite Francaise" 同様、本書においても、人間が戦時に欲望やエゴイズムをむきだしにする様子が赤裸々に描写されているが、それは戦争という外的条件の所産ではなく、心の内部の問題であるとアディーチェは言う。その通りだと思う。動乱の時代のみならず、人はふだんからエゴイズムのかたまりであり、エゴをどれだけ表に出すかは各人が決めることだ。
人々が戦争で暴徒と化す場面は今まで数多くの作家によって描かれてきたが、ネミロフスキーの作品が凡百の戦争小説と異なるのは、人間が本来、内面にもっているエゴイズムを露呈する契機、あるいは触媒として戦争を捉えている点である。それは人間の不完全性を見据えた悲劇的人間観に他ならないが、アディーチェは同じくそういう視点に立ちながらも、最終的な決断を個人の手にゆだねることによって人間への信頼を示している。ぼくはそこに感動を覚える。
むろん、コンラッドが『ロード・ジム』で述べているように、限界に直面した人間に可能な選択肢は限られているし、その決断自体、オーウェルが言うように、非人間的行為を中止させるために「あえて罪を犯す」、悲劇的なものになるかもしれない。つまり、アディーチェの思索の先にもまだまだ問題はあるわけだが、ともあれ、アディーチェが現代作家には珍しく、人間の本質に関する鋭い洞察を作品化していることは確かだ。本書が全米書評家協会賞を逃したのは、受賞した Kiran Desai の "The Inheritance of Loss" のほうが、読後に得られるカタルシスの度合いが高いという理由だけだろう。