ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Günter Grass の "Crabwalk"

 帰省中は親の見舞いや家事手伝い、旧友との再会、ドライブなど、けっこうやることが多かったが、それでも三日に一冊のペースで本を読んでいた。「文学の冬」の続きで、ドイツ文学からはギュンター・グラスを選んでみた。

Crabwalk

Crabwalk

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[☆☆☆★★★] ドイツ人の心の奥に潜む人種「区別意識」を鋭くえぐりだした力作。犠牲者の数ではタイタニック号の悲劇をしのぐ史上最悪の海難事件、ヴィルヘルム・グストロフ号事件を採りあげたもので、沈没のさいに生まれたパウルが母と自分の体験をまじえながら事件の詳細を明らかにしていく。ほかの主な登場人物は、客船名の由来となったナチス党員、その射殺犯のユダヤ人青年、客船を沈めたソ連潜水艦の艦長。いずれも実在の人物で、ナチス党員とユダヤ人青年の名前を名乗る架空の人物によってネット上で意見がかわされ、作者グラスらしき人物も登場するなど、メタフィクションにも似た複雑な語りの構造で、話の筋道がわかるまで少々もどかしい。なんの予備知識もなく読みだしたが、なにしろ『ブリキの太鼓』を書いたグラスのことだ。まさか戦争の悲劇を訴えたり、ナチスを断罪したりするだけの小説ではあるまいと思っていたら、期待どおり、人間にかんするひとつの真実が最後に示されていた。論理では説明しきれぬ心の闇。人種意識やナショナリズムとは、そういう闇の産物なのかもしれない。

 …恥ずかしながら、ギュンター・グラスは『ブリキの太鼓』しか読んだことがなかった。本来なら『ブリキ…』に始まるダンツィヒ三部作の続きを読むべきだろうが、"Dog Years" しか手元にない上、六百頁を超える大作ときている。正月休みに取り組むには荷が重すぎるので、小品の本書を手にとってみた。
 ぼくはドイツ文学というと、トーマス・マンカフカを少々かじった程度の門外漢。『蟹の横歩き』という題名で邦訳が出ていることも知らなかった。読んでいるうちに、たぶん実際にあった事件なのだろうとは思ったが、それを確認したのも今日のこと。いやいや、グラスがナチスの親衛隊員だったという話さえ、今回ネットで検索するまで知らなかった。まったく無知もいいところだが、あえて居直れば、小説を楽しむのに予備知識は全然必要ない。なまじ知識があると、それがらみの角度からまず眺めることになるのが難点とも言えよう。
 弁解はさておき、本書を読んでいるうちにまず思ったのは、グラスが映画『タイタニック』をかなり意識していることだ。実際、映画を観た主人公が「予想通りがっかりした」話も出てくるほどで、失望の理由は、悲劇に恋愛をからめていることと、最後にヒロイックな行動が示されること。つまり紋切り型の域を出ていないと言いたいわけだが、これはおそらく作者の感想でもあろう。
 『タイタニック』に関しては、双葉十三郎も『ぼくの採点表』で「『歴史は夜つくられる』が下敷きみたいに思え」、「いささか興ざめ」と述べている。何年か前、たまたま『アラビアのロレンス』と続けてDVDを観るという暴挙をやってのけた僕も、『アラビア…』の長さには意味があるのに対し、『タイタニック』はただ長いだけと思ったものだが、グラスの映画評はすなわち、「だから俺はそんな小説は書かないよ」という宣言でもある点が面白い。僕は最初、なるほど悲惨な事件には違いないのだろうけど、それを採りあげる意味は何なのかと思いながら読んでいただけに、この宣言を目にしたときは、以後の展開に大いに期待がもてるものと喜んだ。
 やがてナチスユダヤ人の話になるわけだが、これまた定番の題材であり、よほど斬新なアプローチがないかぎり、小説としての魅力は薄れてしまう。むろんネオナチの存在や、本書で紹介されているような、過去と折り合いをつけたかに見える一般ドイツ人の風潮を考えると、「いつか来た道をふたたび歩んではいけない」式の警鐘を鳴らす意味もあるのかもしれないが、同じノーベル賞作家でも、ギュンター・グラスはどこかの国のアジテーターとは異なるはずだと思っていたら、さいわい、道徳的な説教や政治的主張はみじんも出てこなかった。さすがである。
 それどころか、本書の眼目はドイツ人の深層心理に潜む(とグラスが言う)ユダヤ人との違和感を剔抉した点にある。主人公のフリー・ジャーナリストは、この大惨事を扱うまで「右にも左にも偏らない中道路線」を歩んできたと告白しているが、もしかしたらこれは作者自身の立場を代弁した言葉かもしれない。この言葉から連想されるのは、よく言えば常識とバランス感覚、悪く言えば毒にも薬にもならない曖昧性だが、グラスが本書の終幕で提示したものは「右にも左にも」関係のない「毒」である。すなわち、人々が自分の国民性や他民族との違いを意識する根源には、理屈とは無縁の感覚なり本能なりが働いているのではないだろうか。
 むろん、これは一歩間違えれば人種差別につながる危険な発想である。それゆえグラスもこの本能を 'evil' と呼ぶ。だが、悲しいかな、人はどこかで他人との差を痛感せざるをえない。その意味で人間の平等などありえない。こういう「区別意識」を民族レヴェルで明示したところが本書の「斬新なアプローチ」と言えるだろう。本書を読んだ歴史に無関心な層のドイツ人は、いったいどんな受け止め方をしたのだろうか。
 あえて注文をつければ、この人種区別意識の実体についてもっと詳しく解明して欲しかったが、それは本質的に言語の対象とはならないものを言葉で表現しようとする作業である。そんな作業をこなすことこそ、まさに作家の仕事だと思うのだが、それにはまた別の物語が必要なのかもしれない。