ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Andrei Makine の "Dreams of My Russian Summers"

 年末年始の休みを利用した「文学の冬」シリーズで、仏独伊に続いて読んだのは露西亜の文学作品。といっても、正確にはロシア人作家がフランス語で書いた小説だ。1995年のゴンクール賞受賞作、および1997年の全米批評家協会賞最終候補作である。

Dreams Of My Russian Summers: A Novel

Dreams Of My Russian Summers: A Novel

  • 作者:Andrei Makine
  • 出版社/メーカー: Touchstone
  • 発売日: 1998/08/27
  • メディア: ペーパーバック
[☆☆☆★★★] 夢と幻想の香りが立ちこめた印象派の絵のような秀作。少年時代の夏、広大なステップの草原の端にある祖母の家で過ごした主人公の回想録で、美しい女性の写真を見てふと涙した祖母が思い出を語りはじめる。祖母はフランス人。パリの風景や歴史的事件は記憶の中で溶けまじり、さらにそれが主人公の夢想をかきたてる。祖母はまた歴史の生き証人でもあり、ロシア革命、シベリアでの悲惨な生活、スターリン時代の恐怖、第二次大戦など、苦悩と受難に満ちたロシア史が綴られる。こうした二重のヴィジョン、つまり過去と現在、厳しい現実と甘美な幻想の混合には当然、マジックリアリズムの実験とは異なり、かなり感傷的な抒情詩のおもむきがある。それは過去の一瞬を永遠に定着させようとする、「失われた時を求め」る試みとも言えよう。やがてフランスへの幻想が幻想であることを知り、ロシアの現実に直面した主人公は、その現実を祖母の前につきつけようとするのだが…。冒頭で祖母の流した涙の意味が明かされる結末がとても感動的だ。それはまさに過去と現在の融合した瞬間であり、ロシアとフランスという空間を超えた夢のような現実の一瞬でもある。時間の錬金術が産みだした結晶と言ってもよい。英語も内容を反映した、じっくり味わうのにふさわしい文体だ。

 …アンドレイ・マキーヌは95年に本書でゴンクール賞メディシス賞の二冠に輝いた有名な作家だが…などと知ったかぶりで書いてはいけない。ぼくが彼の存在をキャッチしたのは去年のことで、英米アマゾンのリストマニアをサーフィンしているうちに気がついた。今回ネットで検索すると、本書『フランスの遺言書』も含めて邦訳が三作出ているようだが、ほかの二作は未読。ロシアの現代作家で英訳本をもっているのは Victor Pelevin だけで、これまた未読。フランスの現代文学にしても、英訳で読んだのは大好きなマルグリット・デュラスしかいない。まことにお恥ずかしいかぎりだが、老後が楽しみだと開き直っている。
  "Dreams of My Russian Summers" の主人公は、幕切れ近くになって分かるのだがフランス在住のロシア人作家。最初はロシア語からの仏訳として原稿を出版社にもちこみ、ようやく出版にこぎつけたもののさっぱり売れず、という話が出てくる。マキーヌの経歴を調べると、これは彼の実体験でもあるようなので、本書は自伝的要素の濃い作品なのかもしれないが、そんなことは芸術の鑑賞にはなんの関係もない。
 ぼくが冒頭から何よりも惹きつけられたのは、映画でいえば紗がかかったような画面が連続する繊細なタッチである。これはむろん、主人公の回想に祖母の回想が混じるという二重のフィルター効果によるものだが、そこには同時に、主人公が祖母とその思い出の対象を愛し、祖母もまた人を愛し、その人間にまつわる思い出を愛おしむという二重の愛のフィルターがあることも見逃せない。そのフィルターを産みだしたものは作者マキーヌ自身のロシアとフランスへの愛であり、それゆえ彼は万感の思いをこめてこの作品を練りあげたに相違ない。
 こういう過去への哀惜の念から、人は流れる時間をなんとか永遠のものとしてとどめよう、少なくとも、心の中で再構成したいという誘惑に駆られるのかもしれない。ぼくはその昔、『失われた時を求めて』の邦訳を途中で投げ出してしまった口だが、勤めを辞めたらまっ先に英訳で読もうと思っている。プルーストを読みたくて退職したと、きざな台詞の一つも言ってみたいものだ。
 ともあれ、上述のような二重の愛のフィルター効果により、現実にあった出来事が夢や幻想の香りを発しはじめる。これがマキーヌの錬金術の正体だ。読む者はただその魔法にかかり、酔いしれるだけでいい。何か人生の真実について教えられる本ではないが、夢こそ真実を表するものだという見方もある。迷いつつ星の数は4つにしたが、これはもちろん夢から覚めたときの評価である。