ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

"Moby-Dick" と「闇の力」(16)

 白鯨を根元的な悪の存在と見なし、白鯨を仕留めることでこの世に絶対的正義を確立しようとするエイハブが一瞬、巨大な鯨という壁「の背後には何もないと思う」。白鯨をその白さゆえに、崇高な理想主義的ヴィジョンの象徴と見なすイシュメールも、同じくその白さゆえに、「虚無の思想に背後から刺される思いがする」。このような虚無感は、理想主義の追求という観点からすれば、「戦うべき理想が何もないかもしれない」、「理想だと思ったものが、実際は理想でも何でもないかもしれない」という疑念にほかならない。
 こうした虚無感は、フィクションを離れて現実に即して言えば、革命や戦争、テロの反動として生まれる「正義の正当性に対する疑い」と重なっている。前述したとおり、エイハブが「乗組員を死に導いた行為は現実の世界では虐殺に等しい」からだ。近現代における革命家や国家の指導者、テロリストたちの正義の追求は、恐ろしい流血の惨へと結びついてきた。ならば、さほどに血を流す正義が果たして「正義」と言えるのか。そんな「正義」しか手に入らないのなら、この世にはしょせん、絶対的な正義は存在しないのではないか。
 だが、「戦うべき理想がないかもしれない」と思ったエイハブは結局、「わが憎しみをやつにぶちまけてやる」とばかり、ひたすら猛烈な理想主義的衝動に駆られてしまう。「虚無の思想に背後から刺される思いがする」と述懐し、エイハブの衝動を客観的に眺めようとしているイシュメールも、やがて「この熱狂的な追跡に何の不思議があろうか?」と叫び、最後までエイハブと行動を共にする。
 これはまさしく、崇高な理想が人間を強く惹きつけるということであり、言い換えれば、人間には理想を求める衝動があるということでもある。少なくともメルヴィルが、そういう魔力や衝動を人間の本質にかかわるものとして提示していることは間違いない。人は上述のような疑念や虚無感にはとどまれず、いつか必ず「闇の力」の虜になってしまう――それが "Moby-Dick" のテーマだ。(続く)