ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Lawrence Durrell の “Mountolive (Alexandria Quartet 3)”(2)

 一週間前に風邪をひき、売薬でなんとかごまかしていたのだが治らず、きのう医者に診てもらったところ。確実に免疫力が落ちている。
 ふだんにも増して頭が働かないが、とりあえずアレクサンドリア四重奏の第三巻、"Mountolive" について補足しておこう。 

 これは一読、レビューの書き出しを思いついた。「驚いた。じつに面白い」。以後の駄文は、その理由をくだくだしく説明したものにすぎない。
 本書の役割は、簡単に言えば「起承転結」の「転」。In trying to work out my form I adopted, as a rough analogy, the relativity proposition. The first three were related to an intercalary fashion, being 'siblings' of each other and not 'sequels' とローレンス・ダレルは序文で述べているが、相対性理論は理解の埒外。本書までの流れをフローチャート風にまとめてみよう。
「単独作品としても読める」第一巻 "Justine" を、いやじつは、と否定したのが第二巻 "Balthazar"。それをさらに否定したのがこの第三巻で、しかも「前二作のたんなる補完ないし異稿ではなく、一連の作品にコペルニクス的転回をもたらす役割を担っている」。恋愛がテーマだったはずなのに、「恋愛とは別次元のもの」が前面に押し出されているからだ。
 全四巻のうち、本書だけが三人称となっている理由もそこにある。一人称のままでは、いくらほかの登場人物の手紙や日記を引用しても、これほどの「コペルニクス的転回」は不可能だろう。
 と、ここまでモーツァルト弦楽四重奏曲ハイドン・セット」を聞き流しながら書いてきた。四重奏曲の第三楽章でも以上のような転回があるのかな、と思ったからだが、よくわからない。ただ、第三楽章から聴きはじめてもピンと来る作品は少ないかもしれない。
 けれども、本書は「四部作の第三巻でありながら、これから読みはじめても十分に楽しめる大傑作である」。メロドラマと政治陰謀劇からなる物語性が豊かだからだ。
 ほかの四部作の場合はどうだろう。といっても、ぼくが読んだことがあるのはジョイス・キャロル・オーツのワンダーランド四部作くらい。 

 たしかにあの第三巻 "Them" はシリーズ随一の出来だったと思う。しかし、あちらは貧乏白人の年代記というテーマで統一された、それぞれ単独作品の集合体としての四部作。同一人物たちの愛の諸相を描いたアレクサンドリア四重奏とは構成的にまったく異なるものだ。乏しい読書体験のなかで想像するのだが、この "Mountolive"、「こんな四部作の第三巻は空前絶後ではなかろうか」。
(写真は、愛媛県宇和島市吉田町に住む友人のみかん畑。先月の帰省中に撮影。西日本豪雨の際、ここだけ被害をまぬかれたという話だった。被害に遭った畑には案内してもらえなかった。「この青空が信じられないくらいやね」とふたりでため息をついた)

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