ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

William Faulkner の “The Mansion”(1)とスノープス三部作

 きのう、フォークナーの "The Mansion"(1959)をやっと読了。ご存じスノープス三部作の最終巻である。
 この三部作はフォークナーの晩年を代表する高峰群であり、今回の縦走により、またひとつ長年の宿題を片づけることができた。なんだか、ちょっぴり三浦雄一郎氏に近づいたような気分だ。以下、本書のレビューとあわせ、前二巻のレビューも再録しておこう。 

The Mansion (Vintage International)

The Mansion (Vintage International)

 

[☆☆☆★★★] この世にはモラルも信義もないかもしれないが、それらを気にかける人はいる。また、人は人を愛することができないかもしれないが、愛のために犠牲を惜しまぬ人もいる。二十世紀前半、アメリカ南部の町ジェファーソンで資産家へと成り上がった主人公フレムの破滅は、要するにそういうことだ。もとよりフォークナーの意図は勧善懲悪にあるのではない。まずフレムはそもそも悪党ではない。たしかに信義を捨て奸計を弄するものの、彼はせいぜい田舎の拝金主義者にすぎぬ。またフレムを結果的に破滅へと導く彼の娘と、彼女を愛する弁護士は理想主義者でこそあれ、みずからの理念にもとづきフレムを成敗しようとしたわけではない。ただ彼らが正義にこだわり愛と良心の声に従ったことだけは確かである。書中の言葉を借りれば、彼らは善良であるように「呪われている」。こうした人物を、前二巻につづく打算とエゴイズム、欲望と欲望の衝突にからませながら配したところがフォークナーの真骨頂。混乱と激変の時代であればあるほど、人間は本能的に生きようとするものかもしれぬ。しかしその本能とは何か。もし生存だけ、欲得だけを指すとフォークナーが考えていたのなら、本書にはフレムおよび彼と利害の対立する人物しか登場しなかったはずだ。人間は金銭に呪われているが、それと同時に、金銭には換えられないものにも呪われている。これがフレムの破滅の意味である。前巻までの破天荒なドタバタ喜劇が影をひそめたのは残念だが、本書は理想と現実に引き裂かれた人間の運命劇。おのずとシリアスにならざるを得まい。第二次大戦も話題に出てくるが、フォークナーはこの三部作をこのように締めくくることで心の救いを求めていたのだろうか。  

The Hamlet (English Edition)

The Hamlet (English Edition)

 

[☆☆☆★★★] 体制が崩壊、権威の失墜した混乱の時代ほど人間は人間らしく生きるものかもしれない。本性が現われやすいからだ。ゆえにドラマも起こりやすい。本書にふくまれる短編をフォークナーが書きはじめたのが1931年。以来、約30年間、彼がスノープス一族の物語にこだわり続けたのは、南北戦争後の南部の町や村が人間ドラマを描くにふさわしい舞台であり、そのドラマをとおして人間の本質を究明しようとしたからではないか。主役はジェファーソン近くの小村に流れ着き、才覚を発揮して貧民から地主へと成り上がるフレムだが、周辺人物の動きが面白い。のちにフレムの妻となる小娘に手を出す教師。牛をめぐって殺人を犯すフレムのいとこ。フレムの土地で南軍の埋蔵金探しに精を出す男たち。どのエピソードにも顔を出す情報通でミシン売りの行商人。錯綜する言葉の森を馬が駆けぬけ、突然緊張が走り、ドタバタ喜劇が起こり、人びとが互いに感情と欲望をむき出しにする。打算とエゴイズムこそ人間の本質なのだという悲劇的人間観が迫力満点のアクションを通じて、またコミカルに示される。饒舌な文体と鋭い描写がコントラストをなし、どの人物もステロタイプのようでいて彫りが深い。フレムの出番が少なく、そのぶん全編の中核に位置すべき山場に欠ける憾みはあるが、短編からスタートした本書の成立事情を考えると、むしろ手際よく長編に仕上げた技量を評価すべきだろう。今後のフレムの生き方が楽しみな序章である。 

The Town (Vintage International)

The Town (Vintage International)

 

 [☆☆☆★★] 前半が面白い。南北戦争から約半世紀後、南部の町ジェファーソンを舞台に発電所の資材横領や、美女をめぐる恋の鞘あて、レトロなポルノ上映、ラバの暴走など、時にはホラ話に近いようなドタバタ喜劇が連続。生ぐさい欲望と欲望の衝突はこっけいそのものだが、そんな大人たちの没道徳的な姿を、純粋無垢な少年の目を通して描いたところにフォークナーの偉大さがある。彼が理想と現実に引き裂かれていた証拠だからだ。一方、後半に入って主人公フレムが才覚を発揮、奸計を弄して銀行の頭取に成り上がるまでの前頭取との暗闘は、フレムの妻と前頭取との不倫というメロドラマ的な興味もあるものの、総じて楽屋話を聞くようで迫力に欠ける。時代が激変するなか、新興勢力を代表するフレムは現実主義者だが、守旧派であるべき前頭取はメロドラマの主役というだけで理念がない。ゆえに真の意味でフレムとの対決もない。また、フレムの妻に思いを寄せる弁護士は理想主義者だが、彼がフレムと対峙する場面もほとんどない。従って、フレムの妻の破滅は新旧両勢力の衝突によるものでも、理想と現実の矛盾がもたらしたものでもない。現実を知りつくし、男たちを手玉に取っていたはずのフレムの妻が現実に呑み込まれて破滅する。編者の後注によれば、フォークナー自身、本書の執筆後に「胸を痛め、泣きそうになった」とのことだが、それがフレムの妻の末路を思いやっての話だとしても、共感の涙は流しにくいかもしれない。