ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Virginia Woolf の “Mrs Dalloway”(3)

 相変わらず絶不調。微熱がひかず、活字を目で追いかけるのがしんどい。予定ではとうに読みおえているはずの "Snow" もやっと半分まで進んだところ。
 その中盤前から主人公のトルコの詩人 Ka は、訪れた地方都市 Kars で限定的に発生した軍事クーデターに巻き込まれる。自作の詩を観客の前で朗読した劇場で学生たちが射殺され、いまは戦車が出動して砲撃をおこない、住民が射殺された場面。
 ここで当然、緊迫したウクライナ情勢についてふれざるをえない。これは情報にうといぼくの素人予想だが、早ければ数日中にも親ロ傀儡政権が樹立し、一時的には戦闘が収束するかもしれない。がしかし、いままで自由を享受していた国民は強権政治のもとでどう動くのか。
 もしぼくが彼の国の住民だとしたら、まず家族のことを考え、年齢的にも戦闘はむりなので国外脱出の道を選ぶだろう。しかし若ければ、死を覚悟でレジスタンス運動に参加したい。亡き恩師も「自由を守るためなら鉄砲をかつぐ覚悟がある」と宣言していた。それを耳にしたとき、平和ボケしていた当時のぼくには非現実的な話にしか聞こえなかったが、いまやそれが現実のものになりつつあるような気がする。今回の侵攻が対岸の火事とは思えないからだ。
 というのも、沖縄のさる元国会議員はどこまで本気なのか、沖縄が独立国家になればいいと発言したらしい。他県では外国企業による用地買収が進んでいる例もあると聞く。こうした状況が、自国民を守る、という侵略の口実を外国に与えるきっかけとならないようにするには、いま、なにをなすべきなのか。
 "Mrs Dalloway" でも、戦争と死にかかわる重大事件を知ったときの人間の反応が描かれている。Mrs Dalloway は自宅でパーティをもよおしたさい、自分とはまったく関係のない青年 Septimus が自殺した一件について、彼を診察した精神科医の妻から聞かされる。What business had the Bradshaws to talk of death at her party? A young man had killed himself. And they talked of it at her party ― the Bradshaws talked of death. .... Death was defiance. Death was an attempt to communicate, people feeling the impossibility of reaching the centre which, mystically, evaded them; coldness drew apart; rapture faded; one was alone. There was an embrace in death. But this young man who had killed himself ― had he plunged holding his treasure? 'If it were now to die, 'twere now to be most happy,' she had said to herself once, ....(pp.201-202) She had escaped [from the terror of this life]. But that young man had killed himself. Somehow it was her disaster ― her disgrace. It was her punishment to see sink and disappear a man, there a woman, in this profound darkness, .... Odd, incredible; she had never been so happy. Nothing could be slow enough; nothing last too long. No pleasure could equal, she thought, .... this having done with the triumphs of youth, lost herself in the process of living, to find it, with a shock of delight, as the sun rose, as the day sank.(p.202) The young man hd killed himsef; but she did not pity him; with the clock striking the hour, one, two, three, she did not pity him, with this going on. .... She felt glad that he had done it; thrown it away while they went on living.(p.203)
 長々と引用してしまった。難解な部分もあるが、簡単にまとめると、Mrs Dalloway は死を生者にたいするメッセージと受けとめ、自分が死をまぬかれていることを死者にたいして恥じると同時に、日々の生活を送る幸せも感じている。一方、青年は死ぬことで青年なりに幸福な選択をしたのではないか。
 おそらく見当ちがいの要約だろうが、ここで問題なのは、Septimus の自殺とそれにたいする Mrs Dalloway の反応が、本書全体のなかで(最大の紙幅を占めるものの)ひとつのエピソードにしかすぎないことだ。彼女の生きかたは、この前後で大きく変化しているわけではない。Septimus が第一次大戦後、戦死した友人のことで深く思い悩んでいた、などという話はべつの箇所で紹介されるものの、Mrs Dalloway 自身がそれを聞いたり、戦争や、戦争が人間におよぼす影響について言及したりするくだりはひとつもない。「つまり、ここでは本来複雑にからみあうはずの戦争と平和がべつべつの要素として存在する。それどころか一事が万事、本書には人生の断片しか存在しない」。
 いかん、ここでまた頭が痛くなってきた。中途半端だが、あとは脱兎のごとく片づけよう。「戦争も自殺もひとつのエピソードにすぎないとは、恐るべき平和、恐るべき絶望とニヒリズムである」。だからこそ、こんな作品を書いた Virginia Woolf が「不幸のうちに生涯の幕を閉じたのも無理はない」と思えてならないのだ。

(下は、この記事を書きながら聴いていたCD。こんな美しい音楽をのんびり聴き、こんな駄文を綴っていられる平和のありがたさを実感しつつ、ふたたび考え込んでしまう。いま、なにをなすべきなのか)