ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Nadine Gordimer の “The Conservationist”(3)

 まず昨日の訂正から。2番めの引用箇所に If I had had my father's money とあったので、メモを確かめもせず、中間部分のエピソードもうっかり Mehring の息子の話だと勘違いしてしまった。実際は Mehring 自身が経験したことである。朝起きて気がつき、あわてて訂正したが、ほんまにボケてますなあ。
 ほかにも "The Conservationist" については、もう少しだけ補足しておきたい。それは本書が、図らずも伝統的な小説と、小説の素材となる現実との相違をみごとに示した作品であるということだ。
 ふつう人が小説に期待するものは、まず面白い事件。次に、それがいくつかつながった面白い展開。そしてその中で登場する人物同士の面白い関係。さらに純文学であれば、そうした事件やプロット、人物関係などを通じて示される人生の真実。そんなものだろう。
 ところが本書の場合、そういう期待は、最後の1点を除いてことごとく裏切られる。たいした事件は起こらない。プロットもあってないようなもの。人物もわるく言えば小物ばかり。それなのに人生の真実はしっかり伝わってくる。「人生に事件はあっても筋書きはない。そして多くの場合、人間は現実に流されながら平凡な生活を送」っているという真実である。幕切れ近くで the commonplace and ordinary assurance of what are the realities of life(p.251)とか、What could be a more routine incident?(p.252)といった文言が出てくるのは、決して偶然ではないような気がする。
 なあんだ、そんなことか、とあなどってはいけない。平凡の平凡たるゆえんをこれほど正確かつ詳細にえがいた作品も珍しいのではないか。
 それは技法的な観点からも説明できそうだ。「人称が目まぐるしく変化し、視点がゆらぎ、過去と現在、予想される未来の出来事が入り組み、一見無関係な話題が続」く。これは、「人の心は常に変化し、同時にいろいろなことを脈絡もなく考え、決して一点にとどまることがない」という人生の真実を反映しているのではないだろうか。
 このような技法は長編より、むしろ短編に向いているかもしれない。Nadine Gordimer を読むのは今回が初めてだったので、先ほどネットで調べたところ、2014年7月14日付のニューヨーカー誌に追悼記事が載っていた(https://www.newyorker.com/books/double-take/nadine-gordimer-in-the-new-yorker)。
 それによると、Gordimer は同誌の常連作家だったらしい。そんなことさえ知らなかったとは、まことにお恥ずかしい次第だが、ともあれこれは、Gordimer が短編小説の名手だった証拠である。ノーベル賞を受賞した理由もそのへんにあるのかもしれない。長編はさすがにもうシンドイので、いつか彼女の短編集を読んでみようと思う。
 それにしても、〈文学のお勉強シリーズ〉で取りかかった "The Conservationist"、ほんとうにいい勉強になりました。
(写真は宇和島市妙典寺)