ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

J.L. Carr の "A Month in the Country"

 5つ星の作品にこだわり、Irene Nemirovsky の "Suite Francaise" を採りあげてから、柄にもなくお堅い話が続きすぎてしまった。問題の核心にさっぱり触れない作家よりも、深刻な問題を粗雑に扱うレビュアーのほうが、よほど罪が重いかもしれない。ということで、多忙ゆえの「名作巡礼」も軽い内容へ軌道修正することにした。
 追記:本書は下にも書いたとおり、映画「ひと月の夏」の原作です。

A Modern Classics Month in the Country (Penguin Modern Classics)

A Modern Classics Month in the Country (Penguin Modern Classics)

[☆☆☆★★★] 読みだしたときから、福永武彦の『廃市』と似ていると思った。青春時代、初めての土地で懸命に仕事に打ちこんだ夏。地元の人々との交流、そして恋の思い出。とはいえ、福永作品のほうは独特のセンチメンタリズムが漂っているが、カーの文体は緊密そのものだ。すべてを切り詰めた凝縮の美学と言ってよい。舞台は第一次大戦後まもないイギリスの田舎町。今は年老いた男が、戦争体験と妻の出奔で心に深い傷を負いながら、教会の壁画の修復に取り組んだひと夏を回想する。のどかな田園風景、人情豊かな周囲の人々、美しい牧師の妻、戦地での過酷な経験…。現代の作家なら間違いなく大ロマン小説に仕立てあげるところだが、ノスタルジックな味わいこそあるものの、前述のとおり作者は簡潔をもって旨とし、どの要素も詳細に描こうとはしない。そのため、たぶんイギリス人が読めば胸を締めつけられるような光景やエピソードでも、評者には退屈に思えることがあった。しかしながら、後半ほど「青春の叫び」が聞かれるようになり、とりわけ、結末の数頁は珠玉のように美しい。二度と帰らぬあの一瞬。いつまでも続いて欲しかった夏。再読すれば星を1つ増やしたくなりそうだ。英語は方言による会話があり、難易度の高い語句も頻出するので上級者向きだと思う。

 …80年のブッカー賞候補作で映画『ひと月の夏』の原作だが、映画のほうは未見。観てもいない映画の話をするのは気が引けるが、双葉十三郎氏はこれを『外国映画 ハラハラドキドキ ぼくの500本』の中に収めている。へえ、そんな映画なのかと驚いたが、ぼくが読んだ原作の印象としては、青春小説とローカル・ピースをうまく混ぜ合わせたものだ。
 上のレビューにも書いたが、これはとりわけ後半が見事。年齢的にはまだ青年の主人公が美しい牧師の妻に恋をするものの、二人の心が通じ合ったかに見える瞬間はまさに瞬間にしか過ぎない。しかし、それは同時に永遠の一瞬でもあり、その思い出は主人公の心に一生焼きついている。同じ双葉氏の本でも、『愛をめぐる洋画 ぼくの500本』に入れたくなるような内容だ。
 本書でこういう結晶化された一瞬を産みだす要素を箇条書きにすると、青春時代の夏、一つの仕事に注ぐ情熱、初めて見る美しい田舎の風景、そして美しい女性との邂逅ということになるが、驚いたことに、これらはすべて福永武彦の『廃市』にも当てはまる。ぜひ読み較べたいところだが、残念ながら『廃市』はもはや新潮文庫でも古本でしか手に入らないようだ。さりとて、大林宣彦監督の映画化作品も、BSで観ただけの感想で言うと、出来はあまりよくない。滅びゆく街という廃市のイメージはうまく映像化されているのだが、原作にこめられた青春時代の夏の情熱が今ひとつ伝わってこないし、大林監督は得意のファンタジー的な処理に寄りかかり過ぎていると思う。福永武彦は一般の読者には『忘却の河』ならぬ、忘却の彼方へと消えつつある作家なのだろうか。

忘却の河 (新潮文庫)

忘却の河 (新潮文庫)