師走が近づいてきて、テンプのぼくもそれなりに忙しくなってきた。おかげで、というか毎度のことだけど、いま読んでいる本もなかなか進まない。Don Delillo のご存じ超大作 "Underworld"(1997)である。
え、あんたまだ読んでなかったの、と嗤われそうだが、ぼくが海外の純文学にハマったのは、2000年の夏に "Anna Karenina"(1875-78 ☆☆☆☆★★)を英訳で読んでから。それまでは大のミステリ・ファンで、ブッカー賞も Don Delillo も聞いたことなんてなかった。
そのブッカー賞レースも今年は終わってしまい、例年この時期は積ん読の山の切り崩し。いの一番に取りかかったのが表題作というわけである(☆☆☆★★)。
これを入手した当時は Orhan Pamuk の最新作だったが(原作2014、英訳2015)、レビューを書いてからチェックしてみると、"The Red-Haired Woman" という新作が出ていた(原作2016、英訳2017)。急遽購入。せっかく崩した山がまた元に戻ってしまうなんて、〈水の泡の山〉とでも言うのだろうか。
さてこの "A Strangeness in My Mind"、ぼくは手に取るまで知らなかったけど、2016年のブッカー国際賞最終候補作である。同賞が作家ではなく作品単位で選ばれるようになった1年目で、受賞作は Han Kang の "The Vegetarian"(☆☆☆★★★)。
明らかに同書のほうが出来がいい。率直に言って、Pamuk を読んで退屈したのは今回が初めてだった。「冒頭にぐっと引き込まれるが、(主人公)メヴリュトの少年時代から駆け落ちにいたるまでの回想が悠々たるペース」だからだ。
書中、タイトルに直結するくだりは、ぼくのメモによると10箇所。見落としもあると思うけど、問題は、どこを読み返しても、それほど深い意味のある「胸の違和感」ではない点である。メヴリュトが初めてそれを覚えたのは、最愛の女と駆け落ちしたはずが勘違いだったことに気づいたとき。そりゃそうでしょう、としか言いようがない。
以下、違和感にまつわるはずの実存の意味を掘り下げるわけでもなく、物語は大河ドラマ式に「悠々たるペース」で進んでいく。超大作は波瀾万丈でないと、かったるい。その点、既読の Pamuk の旧作でいえば、やっぱり "My Name Is Red"(1998 ☆☆☆☆★)がいちばん面白く、ついで "The Museum of Innocence"(2008 ☆☆☆☆)。この二作の印象が強烈だっただけに、今回は期待外れだった。
strangeness in my mind とは、いろいろな感じ方があると思う。英訳では未読だが、カミュの『異邦人』に代表されるような実存の問題にかんするものが主流かもしれない。だから、ぼくも何気なく「~を掘り下げる」などと書いてしまったけど、たとえば19世紀アメリカの思潮であったエマスン流の楽天的理想主義にたいしてメルヴィルがいだいていた反時代的精神こそ、じつは strangeness in my mind の最たる例ではなかろうか。おおかたの意見が一方に流れているとき、論理的に、いやちがう、と主張する精神である。
そういう文脈で振り返ると、毎度おなじみの、ないものねだりだけど本書はかなり物足りない。ついでに脱線するが、どこかの東洋の島国には、反時代的精神を持った作家や政治家なんて何人ほどいるのでしょうか。
(写真は、パリの人気レストラン〈レ・フィロゾフ〉。今年の夏にランチで利用)