ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Franz Kafka の "Trial"

 前回、イアン・バンクスの『蜂工場』について書いているうちに、ふと、カフカの『審判』のことを思い出した。以下は3年前だったかのレビュー。
追記:本書は1963年に日本でも公開されたオーソン・ウェルズ監督作品「審判」の原作です。

The Trial: A New Translation Based on the Restored Text (The Schocken Kafka Library)

The Trial: A New Translation Based on the Restored Text (The Schocken Kafka Library)

[☆☆☆☆★] 他版の英訳と少しだけ読み較べてみたが、本書は現代英語そのもので実に読みやすい。これだけでも大推薦ものである。しかもこの版では、本編以外に断片的な遺稿も訳出されていて興味深い。が、もちろん、これで「カフカ的な謎」がすべて明らかになったわけではない。この、悲劇とも喜劇とも、寓話とも茶番とも形容できるような物語で、カフカはいったい何を訴えたかったのか。いろいろな解釈が成り立つと思うが、評者にはやはり、Kの逮捕と処刑は、全体主義の恐怖を寓話的に暗示しているような気がしてならない。人間を「犬のように」殺す思想とは、まさしくナチズムやスターリニズムそのものではないだろうか。

 …『蜂工場』については前回述べたとおりで、あの「異様な人物の登場する悪夢のような世界」が象徴しているものは「人間の異常性」なのか「現代社会のひずみ」なのか、それとも何かほかの問題なのか、ぼくにはよく分からない。再検証もせず、「いかにも意味ありげに異常な世界を描いた『純文学作品』」と暫定的ながら酷評したのは、ぼくの独断と偏見に過ぎないが、読んでいる最中、「こんなサイコ・スリラーを書く意味は何なのかという疑問」を抱いたことだけは確かだ。
 それにひきかえ、同じく異常な世界を描いた作品でも、『審判』のほうは、その異常性に明確な意味を読みとることができた。これまた独断と偏見に過ぎないが、上のレビューに書いたとおり、「全体主義の恐怖を寓話的に暗示しているような気がしてならな」かったのだ。ある日突然、何の理由もなく逮捕され、そしてまたある日、何の理由もなく処刑される。これはまさに、スターリンの恐怖政治を予言したものではないか、と。
 まあ、そんな感想は月並みで、既に多くの人が同じようなことを述べているに違いないが、さらに平凡な話を続けると、スターリン型の「全体主義の恐怖」とは「理性の狂気」である。「狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である」というのは、チェスタトンの『正統とは何か』に出てくる有名な言葉だが、そういう理性がもたらす狂気を政治小説、サイコ・スリラーに仕立てたのがドストエフスキーの『悪霊』であり、象徴的な寓話として描いた作品が『審判』ではないかと思うのだ。
 この仮説を論証するためには、カフカ共産主義の関係について調べなければならないが、今日はとてもそんな時間はない。ただ、理由なき逮捕と処刑という『審判』の狂気は、そこに理由がないがゆえに、たとえばユダヤ人迫害や黒人差別、アフリカの部族間の抗争といった「種の憎悪」、「本能に発する狂気」とは別物のように思えるのだ。(上のレビューでナチズムにも言及したのは、人間を「犬のように」殺す点においてはナチズムもスターリニズムも同じ、という意味である)。
 ユダヤ人ゆえ、黒人ゆえ、異なる部族ゆえに殺される。理不尽ながら、そこには明確な理由がある。が、党に忠誠を誓っていた者が「反革命分子」ゆえに殺されることには、当人にとっては何も理由がない。ところが、殺す側には「正当な」理由がある。相手が「反革命分子」だったからだ。そういう殺す側の論理とは、まさしく「理性の狂気」に他ならない。この種の狂気が恐ろしいのは、一つには、殺される側には理由が思い当たらないことだ。ジノヴィエフカーメネフが犯してもいない「罪を告白」したうえ処刑されたのが典型的な例である。
 …話が大きくなりすぎた。これほど重大な問題を図式的かつ粗略に扱うことには、われながら抵抗がある。今日はこの辺でやめておこう。