ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

William Faulkner の “Intruder in the Dust”(1)

 William Faulkner の "Intruder in the Dust" をやっと読了。これほどの難物は久しぶりだった。
 追記:本書は1949年に映画化されましたが、日本では未公開のようです。

[☆☆☆☆] おなじみヨクナパトーファ・サーガの一つ。テーマは「人間の誇り」ではないかと思う。主人公は白人の少年。冬の川に落ちたところを黒人に助けられ、お礼に金を払おうとするが、誇り高い黒人は受け取らない。少年はプライドを傷つけられるが、その黒人に一目置くようになる。話変わって4年後、その黒人が町の有力者の息子を射殺した容疑で逮捕され、一家からリンチに遭いそうになる。面会に行くと黒人は、被害者の銃創は自分の拳銃によるものではないとだけ語り、詳しい事情は話そうとしない。そこで少年は深夜、墓場へ死体を掘り返しに行く…。序盤はざっとそんな展開だが、少年が黒人の冤罪を晴らそうとするのは、彼が本能的に持っている正義感ゆえである。それはしかし、安手のヒューマニズムに発するものではない。黒人が黒人らしく卑屈に振る舞わないことに苛立つ一方、黒人が不当に扱われる現実を目の当たりにして座視することもできない、座視すれば人間としての誇りを失うことになるという矜持。少年の正義感は、そうしたプライドと表裏一体のものである。後半、黒人の無実が明らかになり、リンチが中止になったと知るや町から去っていく野次馬に対し、少年は「彼らは逃げた」と言う。それは、過ちを認めることからの逃避であり、さような逃避を決して行なわないこと、それもまた「人間の誇り」の証明に他ならない。このように誇り高い少年を主人公に据えている点に、フォークナーのメッセージを読みとることができるのではないだろうか。英語はフォークナーの作品としては普通の難易度だが、現代英語を基準にすれば明らかに難解である。

 …主人公と同様、フォークナーは逃避を拒んだ作家である。例によって本書でも、ヨクナパトーファ郡の歴史や地理、風土、住民、その特徴などが、見方によっては冗漫と言えるほど緻密な文体で紹介されているが、その目的の一つは、少なくとも南部人が持っている黒人差別意識を、動物的本能というより、人間存在の根底にしみついているような意味での本能として描きだすことにある。その結果、差別意識は単にアメリカの一地方にとどまらず、人間全体にかかわる問題となる。
 「存在の根底」とは観念的な表現だが、フォークナーの手法は決して哲学者のものではなく、「冗漫と言えるほど緻密な文体」にもとづく、まさしく小説家独特のアプローチである。それゆえ、読者はいわば理屈ぬきに、自分の「内なる差別意識」を意識せざるを得ない。そういう説得力は結局、フォークナーもまた、創作を通じて自身の内面を見つめ続けたからこそ生まれるものではないだろうか。人間に本質的な差別意識があることを追求している点で、フォークナーは内なる現実から逃避しなかった作家である。
 差別意識とは負の現実である。だが、フォークナーはその現実を直視する一方、本書で「誇り高い少年を主人公に据えている」。それどころか、相手の黒人もプライドが高いし、少年を助ける弁護士の伯父や、少年の母も、墓堀りを手伝う老婦人も、いざとなると毅然とした態度で困難に立ち向かう。こういう各人物の示す誇りが、本書を読んで得られるカタルシスにつながっている。
 上のレビューを繰り返そう。「黒人が黒人らしく卑屈に振る舞わないことに苛立つ一方、黒人が不当に扱われる現実を目の当たりにして座視することもできない、座視すれば人間としての誇りを失うことになるという矜持」。少年の心の中では、差別意識と「人間の誇り」はなんら矛盾していない。現実を現実として認めながら、それに埋没することなく、矜持を持って現実に対処するのが少年の生き方なのだ。
 このような複眼思考というか二元論に立脚しているがゆえに、フォークナーはやはり偉大な文学者なのである。同じノーベル賞作家でも、「安手のヒューマニズム」を売り物にするどこかの国の作家とは大違いだ。しかもその作家は、「フォークナーの多大な影響を受けている」という話だが、彼はいったいフォークナーの何を学んだのだろうか。
 …とまあ、壮大な誤読をしてしまったかもしれないが、この『墓地への侵入者』(48)に関しては、ほかにもまだ書きたいことがある。長くなったので、今日はこのくらいにしておこう。