ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

William Faulkner の “The Town”(2)と “The Mansion”(2)

 きのうの夕方、家の門に松飾りを取りつけたところで年末の雑用が終了。それまでずっと家の内外の掃除や買い物などで忙しかった。ほかにもジムに通ったり、近所に住んでいる初孫をダッコしたり、もっぱら身体を動かすことばかり。しばらく活字から遠ざかってしまった。
 おかげでブログの更新もすっかりサボっていたが、きょう Faulkner のスノープス三部作についてまとめておかないと、さすがに切りが悪い。大晦日恒例の第九(月並みだがバイロイト盤をはじめ、数種類のフルトヴェングラー盤)を流しながら手短に片づけることにしよう。
 まず前回の続きで第二巻 "The Town"(1957)。 

 「前半が面白い」とレビューを書き出したが、前半は第一巻 "The Hamlet"(1940)とおなじノリ。打算とエゴイズムがぶつかり合うドタバタ喜劇が中心で、たしかに面白いことは面白いのだけれど、正直言って、前巻の二番煎じだなと思った。
 それより特筆すべきなのは、「大人たちの没道徳的な姿を、純粋無垢な少年の目を通して描いたところ」である。正確に言うと、その少年 Charles Mallison だけでなく、少年に大きな影響を及ぼす叔父の弁護士 Gavin Stevens、前巻にも顔を出すミシン売りの Ratliff も語り部となるのだが、分量的に Charles の占める割合が最も多く、ついで Gavin。Ratliff の出番は少ししかない。その Charles はいかにも無垢な少年で、Gavin も道徳に敏感な理想主義者である。
 つまり、"The Hamlet" に引き続き打算とエゴイズムが示される一方、いや、それだけが人間の本質ではないよ、とフォークナーは言いたかったのではないか。なるほど人間は打算とエゴイズムのかたまりかもしれないが、それを是としない対立軸を想定したくなるのもまた人間だろう。その代表者が Charles と Gavin なのである。
 が、この対立軸、"The Town" では旗色がわるい。劇の主要人物ではなく、語り部だからだ。ゆえにここではそもそも理想と現実の激突がない。「(現実主義者である)フレムの妻に思いを寄せる弁護士は理想主義者だが、彼がフレムと対峙する場面もほとんどない。従って、フレムの妻の破滅は(中略)理想と現実の矛盾がもたらしたものでもない」。
 そうではなく、Flem Snopes の妻 Eula は要するに「現実に呑み込まれて破滅する」。フォークナーにしては、なんだかピンぼけだな、というのが率直な感想だ。
 しかしそれは無理もない、と思ったのが第三巻 "The Mansion"(1959)。 

  これは三部作のなかで、いちばん長編としてのまとまりがいい。第一巻からの簡単なおさらいも出来るし、もし一冊だけ読むなら本書が早わかり。
 と言いたいところだが、ぼくは数年前、三部作の最終巻とも知らずに読みはじめ、人物関係から何からイマイチわからないことが多く、途中で変だなと思って裏表紙の紹介文を斜め読み。そこで初めて三部作と知った。やはり頑張って第一巻から読むしかない。
 さて本書では、上の理想主義者 Gavin Stevens と現実主義者 Flem Snopes の対立という図式がいちおう読み取れる。いちおう、だけど。
 で、もしその対立の結果、Flem が破滅したのだとしたら、これは文字どおり勧善懲悪。そんな単純な話をフォークナーが書くわけがない。ネタを割らないように気をつけて書くと、Flem は「身から出た錆」というやつで破滅する。つまり自滅に近い。
 この文脈から第二巻における Eula の破滅を振り返ると、やはり詳細は省くが、あれこそまさに自滅。「もとよりフォークナーの意図は勧善懲悪にあるのではない」。だから白黒はっきりせず、ピンぼけになるのは「無理もない」と、そこでやっと第二巻のカラクリが腑に落ちた次第だ。
 それにしても、こんなふうにまとめてみると、英語的には難解なこの三部作、「物語そのものは(中略)意外に単純だと思う。南北戦争の余韻がまだ強く残る南部の村(と町)で、貧乏白人の Flem Snopes が才覚を発揮して成り上が(り、成り上がり者ゆえに破滅する)」。よくある話だ。そこに込められた意図は、たぶんこうだろう。「混乱と激変の時代であればあるほど、人間は本能的に生きようとするものかもしれぬ。しかしその本能とは何か。もし生存だけ、欲得だけを指すとフォークナーが考えていたのなら、本書にはフレムおよび彼と利害の対立する人物しか登場しなかったはずだ。人間は金銭に呪われているが、それと同時に、金銭には換えられないものにも呪われている。これがフレムの破滅の意味である」。
 具体的な時代背景としては、20世紀前半、第二次大戦直後までの約50年間。そのあいだに南部の町でも馬車が消え、自動車が走るようになった。このように文明が発達する一方、金銭をはじめ人間を呪うものはいっこうに変化しなかった。それは21世紀の今日でもおなじことである。そのうち、ぼくたちはどんな「金銭には換えられないもの」に呪われているのだろうか。みなさま、どうぞよいお年を。
(写真は、愛媛県宇和島市九島〈海すずめ展望所〉付近からながめた風景。背景の山々は亡父が愛した南予アルプス)

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