ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

06年ブッカー賞最終候補作「面白度」ランキング(Man Booker Prize 2006 shortlist)

 一昨日からの流れで、今日は3年前のブッカー賞候補作の「格付け遊び」。この年発表前に読んだのは Sarah Waters と Kate Grenville だけで、以下のレビュー(当時アマゾンに投稿、その後削除)を読めば分かるとおり、Waters の作品が「栄冠に輝いても何ら不思議ではない」と予想して大恥をかいてしまった。ふたをあければ Kiran Desai が受賞。これは近年のブッカー賞受賞作では断トツですばらしい。ほかの作品もかなりよく、この年は豊作だったのではないか。一昨年は不作で、上位3作が心にのこる程度。去年にしても、デサイ作品と較べると、"The White Tiger" など「なんだ、この程度で受賞か」と思ってしまう。

1."The Inheritance of Loss" Kiran Desai

The Inheritance of Loss

The Inheritance of Loss

[☆☆☆☆★] 大方の予想に反して06年度ブッカー賞を受賞したのは、日本でも『グアヴァ園は大騒ぎ』でお馴染みのキラン・デサイ。かのアニタ・デサイの娘だが、母親よりも先に頂点に立ってしまった。たしかに、評者が今まで接した候補作の中では、内面に矛盾をかかえた人物の提示、ひいては人間性の洞察という点に絞ると、本書は一頭地を抜いている。主な舞台は80年代のヒマラヤ山麓の村とニューヨーク。主題は最初、勘の鈍い評者にはしかとつかめなかった。さまざまな人物の現在と過去がモザイクさながら断片的に示されるなか、小気味よいテンポとコミカルなタッチを楽しみつつ、これは現代インド人の諸相、特に日常生活の実態を描いた作品なのかと思っていた。いや、それが実態かどうかも分からぬ立場で言えば、少なくとも各人物の喜怒哀楽、これだけは紛れもなく本物であり、いわばその「真情の点景」が本書のセールスポイントかもしれない…。しかし後半、民族運動のうねりが高まるあたりで、遅まきながら気がついた。この悲喜こもごも、とりわけ哀感の裏にあるものは、インド人の近代の宿命なのではないかと。コロニアリズム、独立と近代化、階級格差、貧困、富への願望、多民族の存在。彼らは今もなお、ことあるごとに、そうした「負の遺産」を痛感せざるを得ない。文中の言葉を引用すれば、「過去と現在の戦い」、それを体現しているのが本書の主な人物なのだ。が、決して観念的な存在ではない。心中の歴史的矛盾を意識した、血も涙もある人間として描かれている。そして最後、かすかに示される希望。他書を圧倒しているかどうかはさておき、やはりブッカー賞にふさわしい作品だと思う。英語は鋭い知性を感じさせる文体で、難易度は比較的高い。なお、アニタ・デサイに関しては、"Clear Light of Day" を論じた拙稿を参照されたし。http://d.hatena.ne.jp/sakihidemi/20090227

2."The Night Watch" Sarah Waters

The Night Watch

The Night Watch

[☆☆☆☆] いやはや、面白かった。500ページ近い大冊なのに、ボケ気味の評者でも2日で読んでしまった。本稿を書いている現在、06年度ブッカー賞の受賞作はまだ発表されていないが、下馬評どおり、本書が栄冠に輝いても何ら不思議ではないと思う。サラ・ウォーターズは『半身』で一躍名を馳せたミステリ作家としての印象が強いが、本書の魅力も一つには推理小説のそれに近いものがある。まず、第二次大戦後まもないロンドンを舞台にした第一部では謎の提示。何やら曰くありげな人物が何人も登場し、次第に輪郭が見えてくるものの、肝心な点はほとんど読めない。この男やあの女、実は何者なのか?その関係は?こういう小さな疑問の連続でサスペンスを生むウォーターズの手法は定番ながら巧妙。戦争末期にさかのぼる第二部は種明かしの巻で、それぞれの謎にまつわる大ロマンがこれでもかと、紙幅を費やして丹念に語られる。その流れを楽しんでいるうちに、ああなるほどと合点する次第。ロマンの一つは「禁断の恋の物語」だが、会話も情景もごく普通の恋愛小説なのに、それが「禁断」であるがゆえに異常な熱気が生まれ、さらに戦時下、空襲の描写が焦燥感を高めている。すべてが氷解する第三部、戦争初期の話もハラハラし通しだが、全体としては、短い年月の出来事なのに大河小説を読んだような趣だ。その割りに、心の底まで揺さぶられなかったのが残念。英語は標準的で非常に読みやすい。

3."The Secret River" Kate Grenville

Searching for the Secret River: The Story Behind the Bestselling Novel

Searching for the Secret River: The Story Behind the Bestselling Novel

[☆☆☆★★] 06年度ブッカー賞の現時点で候補作だが、さて受賞結果はどうなるか。昨今の歴史小説ブームを反映してか、本書の舞台は19世紀初頭、イギリス人流刑囚が開拓に着手した時代のオーストラリア。アメリカもそうだが、フロンティアは英米人のルーツに関わる問題として、いまだに彼らの心を揺さぶり続けているらしい。イギリス本国での貧困と犯罪にしても、彼の地における数々の苦難にしても、本書のリアルな描写を生みだす原動力はとどのつまり、「種の根源への関心」なのではないかと思われる。丹念な調査の結果だろうが、ここには細かい事実の積み重ねによる迫真性があり、フィクションというよりむしろ、ある実在した一家の年代記を読んでいるような印象を受けるほどだ。一方、客観描写にふと紛れこむ心理の葛藤、情感の表現もみごとで、それが文芸作品としての深みを増している。決して波瀾万丈ではないが、各章にそれぞれ山場を設けたオーソドックスな構成で、とりわけ、プロローグの不安に満ちた場面が予感させるように、次第にアボリジニとの緊張が高まり、やがてオーストラリア建国の歴史を象徴する大事件へとつながる終盤の展開が圧巻。複雑な余韻を残す結末も印象的だが、これで例えば、コンラッドのように人間性の根元に迫る問題意識があれば…というのは欲張りな注文かもしれない。英語は準一級程度で読みやすい。

4."Mother's Milk" Edward St. Aubyn

Mother's Milk: A Novel

Mother's Milk: A Novel

[☆☆☆★★] 06年度のブッカー賞レースで、けっこう下馬評が高かった作品。一口に言えば、ブラック気味のドメスティック・コメディーだろうか。題名どおり母親を中心に、戯画的なまでにデフォルメした人物を登場させ、親子や夫婦の悲喜劇を皮肉たっぷりに描くことで家族の肖像を浮き彫りにする、という作者の意図はかなり成功していると思う。評者は深い感動までは覚えなかったが、こういう風刺の効いた狂騒劇がお好みの読者もさぞかし多いことだろう。提出されている問題は、非常に深刻で現実的だ。育児騒動にはじまり、財産相続、親子の断絶、夫の浮気、夫婦の不和、親の介護など、およそ現代の家庭内で起こりうる危機が目白押し。崩壊の一歩手前と言ってよい。こうした現象自体は決して目新しいものではないが、本書では、その崩壊の危機をもたらしているのは母親である。むろん、母親に振りまわされる子供や、母親の立場を自覚した妻に翻弄される夫という要因も大きいのだが、その点も含めて母親が危機の張本人という設定が面白い。これであと、冒頭から登場する、異常に早熟な長男をもっと活躍させれば、家庭小説の新境地を開けたのではないか。英語の難易度は比較的高く、エネルギッシュで知的刺激に満ちた文章だと思う。

5."Carry Me Down" M. J. Hyland

Carry Me Down

Carry Me Down

[☆☆☆★★] 06年度ブッカー賞の最終候補に残った作家は新人が多かったが、ハイランドもその一人。本書は彼女の第二作ということだが、みずみずしい感性の持ち主であり、将来、さらに飛躍を遂げそうな気がする。主人公は思春期前の多感な少年。自ら嘘をつき、良心の呵責を覚える一方、他人の嘘、あるいは嘘と思える言辞に人一倍敏感で、嘘発見の天才を自認している。ここでは基本的に日常茶飯事しか起こらないのだが、大人の何気ない言動の裏に潜む、額面とは異なる意味に対して、子供がいかに繊細、時には傲慢な反応を示すものであるか。本書はそれを改めて思い知らせてくれる。そして何より少年が敏感なのは、両親の危うい関係、二人の間で微妙に揺れ動く愛情の変化だ。そう、子供にとって最大の関心事は、自分の親が愛し合っているかどうかということなのだ。この当然の事実をさりげなく描いて静かな感動を生みだすところに本書の美点がある。一方、これは子供時代の思い出が詰まった作品でもある。薄汚い感じの友人がいて、不良たちは恐ろしく、転校してきた女の子がまぶしく見え、信じていた友人に裏切られて悲しくなり…そんな本書のエピソードを読んでいると、そういえば自分も、と昔を振り返らずにはいられない。その懐かしい思い出が、同時に、とても切ないものに思えてくる。少年の一人称で綴られているだけに英語は簡単だ。たぶん高校生でも読めるのではないか。

6."In the Country of Men" Hisham Matar

In the Country of Men: A Novel

In the Country of Men: A Novel

[☆☆☆★★] 06年度のブッカー賞候補作で、この作家の処女作。劇的で強烈な場面がいくつかあり、水準以上の出来だとは思うが、全体としてはやや散漫な印象を受けた。主人公はカイロ在住のリビア人青年で、主な舞台はカダフィ圧制下のトリポリ。青年が祖国を離れるきっかけになった事件を中心に、少年時代の回想が本書の大半を占めている。一番印象深かったのは、子供らしい浅慮の結果、本心とは異なる言動に走って友人を失ったり、同じく子供ゆえに大人の置かれた状況が見えず、親子間の葛藤を生じたり、といった日常的なエピソードの背景に、全体主義という(我々にとっては)非日常の世界が影を落としていることだ。子供の目から見た、子供の生活にまで浸透した全体主義の現実。評者としては、その点をもっと書きこんで欲しかった。そうすれば、ドストエフスキーが思想的な根源を追求し、オーウェルが具体的な恐怖を描いた全体主義の小説の歴史に、新たな一頁が加わったかもしれない。が、本書で描かれている家庭生活には愛情豊かな母親も登場し、「男たちの国」の政治状況とは別に、母親自身の個人的な思い出も語られる。小説が一本調子になるのを防ぐ効果もさることながら、何よりその語り口には哀切きわまりないものがあって、これはこれで忘れがたい。しかし同時に、それが作品の焦点をぼかしていることも否定できないだろう。英語は二級から準一級といった程度で読みやすい。