さて、Mathilde にかかわる「対比の構造」をもう少し探ってみよう。
まず Julien との恋だが、じっくり読めば読むほど、人は性格が異なれば恋愛の仕方も異なるものだ、という当たり前のことを改めて思い知らされる。いや、「当たり前のことを改めて」なんて利いた風な口をきいてはいけません。それは大人の感想であって、無我夢中で読んだ若い頃は、そんなことなど頭をかすめもしなかった。
Mme de Renal の場合、Julien は当初、ナポレオン的な恋愛観から彼女を征服の対象としてとらえ、臆病風に吹かれる自分を叱咤激励しながら夫人の手を握る。それが恋の始まりだった。ところが、今度はなんと Mathilde のほうから恋を仕掛けるのである。これもすっかり忘れていたことだが、さっそく対比の始まりでもある。
Mathilde が Julien に恋をした動機だが、これは彼女が Julien の非凡さに惚れ込んだということに尽きるようだ。Mathilde は侯爵令嬢で、たぐい希なる美貌の持ち主とあって、社交界には彼女の歓心を買おうとする若い貴族がゴマンといる。ところが、プライドの高い Mathilde には、そんな彼らがアホな男たちにしか見えない。地位と財産はあるが無能で凡庸、退屈この上ない有象無象のやからなんて、誰が相手にしてやるものですか、というわけである。
けれども Julien は……というだけで、早くもまた対比が見えてくる。Julien は身分は低いがプライドは高い。それゆえ、パリに出て Mathilde の父、de La Mole 侯爵の秘書となって以来、自分を 'the miserable individual at war with all society' (p.341) と自覚しているのだが、そんな孤軍奮闘中の Julien をさりげなく観察していた Mathilde は、そこに非凡な知性を、有能かつ高貴で偉大な男を、いわば「男の中の男」を発見するのである。
が、なにしろ Julien は 'a man on the lowest level of Society' (p.344)。そんな男に貴族の娘が恋をするのは非常識かつ危険極まりない行為である。そもそも Mathilde は前回引用したとおり、'a sterile and haughty vanity, all the shades of self-satisfaction' の持ち主だ。そこで彼女はこう思う。'It was not without an inner struggle that Mathilde had written [a love letter to Julien]. Whatever might have been the beginnings of her interest in Julien, such interest soon overcame the pride that had ruled unchecked in her heart ever since she had been conscious of her own existence. For the very first time, this cold, high soul was carried away by passionate feeling. But if feelings now dominated her pride, they remained faithful to the forms that pride had shaped. Two months of struggle and new sensations renewed, so to speak, her entire moral being.' (p.342)
以上をまとめると、Mathilde の恋はいわば「知性とプライドに発する恋」であり、その恋がやがて情熱へと高まるにつれ、こんどは情熱とプライドという内心の葛藤が生じることになる。一方 Mme de Renal はといえば、すでに報告したとおり、まず Julien の「汚れを知らぬ清純な心」に惹かれ、やがて「夫以外の男性への純粋な愛情とキリスト教的倫理観」に心を引き裂かれる。つまり、「人は性格が異なれば恋愛の仕方も異なる」というわけだ。
それにしても、本書は分析すればするほど、「『対比のオンパレード』とでも呼ぶべき数多くの対照的な要素から成り立っている」ことがわかる。でもこれ、世界文学の常識かどうかはさておき、Stendhal の研究者ならとうの昔に気がついていることでしょうな。それとも、『世界の十大小説』の中でモームが書いているのかしらん。
(写真は、等覚寺にある宇和島藩初代藩主伊達秀宗の墓)。