ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Sandor Marai の “Embers” (1)

 ハンガリーの作家 Sandor Marai(ハンガリー語の表記は Marai Sandor)の "Embers" を読了。初版は1942年刊。本書は2001年に出された英訳版である。さっそくレビューを書いておこう。

[☆☆☆★★★] 一見、メロドラマのようである。1940年、ハンガリー辺境の城館に住む老将軍ヘンリクが長らく音信不通だった旧友コンラッドと再会。41年前に起きた事件をふりかえるうち、ふたりと将軍の亡き妻クリスチーナの微妙な三角関係が少しずつ明るみに出る。たしかにメロドラマらしい設定だ。が、事件の顛末からくっきりと浮かびあがるのは、壮大な現代史の流れと、そこに巻きこまれた人間の運命の縮図である。古き佳きオーストリアハンガリー帝国の平和と繁栄。その虚妄と錯誤。第一次大戦後に起きた帝国の解体。やがてまた戦雲の垂れこめるなか、帝国崩壊後も生きのこった人びとにとって生きる意味はなんだったのか。彼らはその悲惨な体験を通じてなにを得たのか。えんえんとつづくヘンリク将軍の独白を通じて、作者は西欧文明を総括し、理想のために流血の惨をもたらした西洋人の心の奥に分けいりながら、そこにひと筋の光を見いだそうとしている。それが「燠火」である。消えかかってはいるが、それでもたしかにのこっている情熱。この情熱なくして人生の意味はない。本書はけっしてウェルメイドな小説ではない。まともに造形された人物はヘンリクただひとりといっても過言ではあるまい。が、ここには鋭い知性が、人生の知恵が、深い絶望が、ほとばしる情熱が充ち満ちている。通常の小説技法をなかば度外視してまでも歴史を、人間の運命を、生の意味を語り尽くそうとする作者の筆力はただごとではない。