ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Lawrence Durrell の “Clea (Alexandria Quartet 4)”(3)

 きょう久しぶりにジムに行ったところ、恐れたとおり足がガクガク。ひところの半分も走れなかった。やはり間を置きすぎてはいけない。
 英語もおなじ。いま読んでいるフォークナーはなんと10年ぶり。記録によると、10年前も3年ぶりということだから、フォークナーからはほんとうに長らく遠ざかっていたものだ。 

 というわけで、相変わらず "The Town" に手こずっているが、それでも少しずつカンが戻ってきた。"The Hamlet" より微妙に易しいし、続編だからということでもあるのだけれど。たぶん、一ヵ月前から寝床の中で読んでいる『夜のピクニック』よりは早く読了できるでしょう。
 閑話休題。まじめな英文学ファンからは座布団が飛んできそうだが、改めてアレクサンドリア四重奏のフローチャートを書いてみよう。まずA男がB子と相思相愛(ただし不倫)の仲となる(第一巻)。しかしA男はC君の話を聞き、B子にダマされていたことを知る(第二巻)。そこへD君が登場。A男とB子の関係が政治陰謀劇の一部という「恋愛とは別次元のもの」だったことを説明する(第三巻)。それから時が流れ、A男にもやっと真実が見えてくる(第四巻)。
 以上はむろん、四重奏のメロドラマ部分を単純に図式化したものにすぎない。そのメロドラマが「形而上学の高みへと昇華されていく」過程が面白い。というか、むずかしい。主人公の作家ダーリーはおなじく作家のパースウォーデンの手記を読み、「紙上対話」というかたちで抽象的議論を行なう。これは「ふたりの作家をあやつる著者のいわば自問自答。それをフィクションのかたちで提示したところが非凡な才の証しである」。
 ローレンス・ダレルは何を自問自答していたのだろうか。A男にもやっと見えてきた「真実」とは何か、という問題だろうとぼくは思う。それを終始一貫、恋愛小説の体裁を借りて問い続けたのがアレクサンドリア四重奏なのだ、というのがぼくなりの結論です。
 前回は truth と fact の違いについて考えてみたが、ここでいちおう整理すると、truth は部分集合の場合もあるが全体集合が基本。fact は全体集合の場合もあるが部分集合が基本。両者は重複する場合もあるが、「矛盾する事実が同時に存在する状態こそ、ありのままの真実である」。
 考えてみると、人生は矛盾だらけ。矛盾に耐えることが人生だとも言える。そして文学とは、人生の矛盾を、矛盾に耐えながら(挫折する場合もふくめて)生きる人びとの姿を描いた言語芸術である。

 とまあ、柄にもなくエラソーなことを思いつきましたね。でもこれ、このところフォークナーを読み、そしてアレクサンドリア四重奏を総括したいま、文学の定義としてはかなりイケてる気がします。
(写真は、愛媛県宇和島市の槇ノ山。先月の帰省中に撮影。小学校の遠足で目にしたときは、たしかもっと秋色だったはず)

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