ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

モーリス・ルブランの『奇岩城』

 きのうまた仕事の山をひとつ越えた。おかげで年末、それどころか、来年1月までの目途も立った。テンプで復職した勤務先とは来年3月までの契約だが、仕事は実質1月で終了するので、気分的にはもう〈終わりの始まり〉。ってことで、あしたから安心して愛媛の田舎に帰省できる。
 バッグに詰め込む本は2冊。ほんとは1冊にしたかったのだけど、取りかかったばかりの Umberto Eco の "Numero Zero"(2015)がかなり面白く、田舎に着くまでに読み終えるといけない。万が一にそなえ、Patrick Modiano の "Sundays in August"(1986)も持って行くことにした。
 この時期は、たとえば去年のようにブッカー賞の候補作を読むのが恒例なのだけれど、今年はあまり食指が動かない。仕事に忙殺され出遅れたせいもあるが、なにしろ3冊読んだ〈ロングリスト候補作〉のうち、1冊だけ入選した Max Porter の "Lanny"(2019)の良さがぼくにはさっぱり分からない(☆☆★★★)。それなのに、現地ファンのあいだでは相変わらず1番人気。ほかの作品がよっぽどひどいのか、と疑ってしまう。 

 それ以外に今年の賞レースが面白くないのは、Margaret Atwood の "The Testaments" の発刊が9月10日。Salman Rushdie の "Quichotte" が8月29日。予約注文した後者の到着予定が9月6日から9日。つまり、大御所ふたりの作品をショートリストの発表(ロンドン時間9月3日)前に読めないのだから、これがどうして白けずにいられようか。
 一方、"Numero Zero" はけっこうイケる。ぼくは去る3月、"Baudolino"(2000 ☆☆☆☆★)を読むまで知らなかったのだが、どうやらメデイアの発するフェイクニュースがテーマらしいということで、4月にでもさっそく読もうと思っていた。それが一寸先は闇。思いもかけない展開で復職し、読書予定など吹っ飛んでしまった。 
 遅ればせながら手に取ってみると、実際、メディアについて日頃ぼくの思っていることが書いてある。The newspapers lie, historians lie, now the television lies.(pp.40-41) There are lies all around us, and if you know they're feeding you lies, you've got to be suspicious all the time. I'm suspicious, I'm always suspicious.(p.41) It's not the news that makes the newspaper, but the newspaper that makes the news.(p.60)
 ウソかマコトか、東洋の島国には、「事実を事実のまま報道しても記事にならない。そこに〈角度〉をつけないといけない」という方針の新聞があるそうだ。〈角度〉とは、その新聞独自の切り口だという。しかもその新聞には、「エビデンス? ねーよそんなもん」とうそぶく編集委員さえいるのだとか。
 "Numero Zero" では、one fundamental principle of democratic journalism として separating fact from opinion が挙げられている(p.57)。とてもまとも、というか、ごく当然のことだとぼくは思うのだが、その常識と、上の新聞の考える常識とは大きく食い違っている。本書ではさらにフェイクニュースの話が続きそうなので、今後の展開から目が離せない。
 さて、以上の話とはまったく関係ないけれど、きょうはモーリス・ルブランの『奇岩城』の冒頭部分の拙訳(英訳からの重訳)をアップしておこう。フランスから帰国後、仕事のストレス発散に試みたものだ。
 ルパンものは小学生のころ、夢中で読みふけった。きっかけは、いとこが購読していた学習雑誌の付録『奇岩城』を貸してくれたこと。文庫本よりさらに小さい、あの付録です。
 面白かったですなあ。ついで、たぶん市立図書館で(学校のほうは、マジメなものしか置いてなかったような気がする)、ポプラ社のルパン全集を読みまくった。
 いまでは、どれがどの話やらゴチャゴチャになってしまったけれど、『奇岩城』の出だしだけは、はっきりと憶えている。もっと先まで読むと、あ、これは、と訂正しないといけない箇所がありそうだが、それはまた後日。

The Hollow Needle: Further Adventures of Arsène Lupin (English Edition)

The Hollow Needle: Further Adventures of Arsène Lupin (English Edition)

 

  レイモンドは耳をすませた。物音は二度くりかえし聞こえた。明らかに、大いなる夜のしじまを形づくる、一連のあいまいな音とはちがっている。それなのにかすかで、よくわからない。遠くなのか近くなのか。大きな邸宅の壁の内側なのか、外の公園の暗い奥の片隅なのか。
 レイモンドはそっと起き上がった。部屋の窓は半びらきになっている。それをまた大きく開け放った。月明かりが、芝生と茂みの静かな風景を照らしだしている。その向こうに古ぼけた礼拝堂の廃墟が広がり、見るも無惨な輪郭を浮かび上がらせていた。折れた柱、傷んだアーチ門、玄関ポーチの破片、飛び梁の残骸。かすかなそよ風が、いろいろなものの表面で舞っている。落葉した木々の微動だにせぬ枝を音もなく吹きぬけながら、芽の出かかった低木の小さな葉を揺らしている。
 と、突然、おなじ物音がまた聞こえてきた。左側、すぐ下の階、居間のなかだ。ということは、館の左翼を占めている一角である。男まさりで勇ましい娘だったが、それでもレイモンドは胸騒ぎがした。するりとナイトガウンを身につけ、マッチを擦った。
「レイモンド……レイモンド!」
 すぐ隣りの部屋から、ふっと息をするような低い声がした。そちらのドアは閉められていなかった。レイモンドは手探りでドアのほうへ進んだ。いとこのスザンヌが部屋から出てきて、レイモンドの腕のなかに倒れ込んだ。
「レイモンド……あなたなのね。聞こえた……?」
「ええ。じゃあ、眠ってなかったの?」
「犬の声で目が覚めたような気がする……ちょっと前に。でも、いまは吠えてないわね。何時かしら」
「四時くらい」
「しっ! 間違いない。だれかが居間のなかを歩いてる」
「危ないことはないわ。下には、あなたのお父さまがいらっしゃるから、スザンヌ
「でも、父には危険なはずよ。父の部屋は、ご婦人がたの寝室の隣りだもの」
「ダヴァルさんもご一緒だから……」
「いらっしゃるのは屋敷の反対側よ。こっちの音が聞こえるわけないわ」
 ふたりは判断に迷った。どんな方針で動いたらいいのか決めかねた。大声を出したものか。助けを求めるべきか。その勇気は出てこなかった。ふたりとも、自分の声の響きにおびえていた。それでも、窓辺に歩み寄っていたスザンヌは、悲鳴を口で抑えた。
「あそこ! 男がいる。噴水の近くに」
 男が足早に立ち去ろうとしていた。小脇にかなり大きな物をかかえている。それがどういう物かは、見分けがつかなかった。男の足にぶつかり、歩く速さを早めているようだった。男は古い礼拝堂の前を横切り、壁の小さな扉のほうへ向かっていく。扉はきっと開いていたにちがいない。男はふと視界から消え、いつもならこすれるはずの蝶番の音がひとつもしなかった。
「居間から出てきたんだわ」とスザンヌが小声で言う。
「ちがう。階段と廊下を通ったのだったら、もっと左手のほうから出たはずよ……だけどもし……」
 ふたりの頭におなじ考えがひらめいた。同時に窓から身を乗りだした。真下を覗くと、はしごが館の表側、一階の壁面に立てかけてあった。光がきらっと射し、石造のバルコニーが浮かび上がる。すぐにまたべつの男が現れた。やはり何かをかかえている。バルコニーの手すりにまたがり、はしごを滑り降りると、最初の男とおなじ道を通って走り去った。
 スザンヌは、恐怖のあまり気絶しそうになりながら両膝をつき、どもり声で訴えた。「呼びましょうよ……だれか助けてって……」
「だれが来てくれるの? あなたのお父さまか……もしまだお客さまが何人かのこっていたら……そしたら一斉に、さっきの男に飛びかかってくれるとでも……?」
「だったら……それなら……召使いたちを呼んでみてはどうかしら。この部屋の呼び鈴、召使いのいるフロアで鳴るんでしょ」
「え、ええ。たぶん、そのほうがよさそうね。こっちへ来てくれるのが間に合うといいけど」
 レイモンドは、ベッドのそばにあるスイッチを、指先で探りあてて押した。上の階のほうでベルが鳴った。下にいるだれの耳にも届きそうな鋭い音だった。
 無言で反応を待った。恐ろしい静寂が流れ、そよ風さえももう、低木の葉を揺らしてはいない。「怖い……怖いわ」とスザンヌはささやいた。
 とその瞬間、階下の深い闇の底から、だれかが争っている物音が聞こえてきた。家具がばたんとひっくり返り、話し声や怒鳴り声が響いたあと、身の毛もよだつほど不気味な、しゃがれたうめき声。殺されかけている男の喉から絞りだされたような声。
 レイモンドは部屋のドアのほうへ突進した。スザンヌが必死に腕にしがみついてきた。
「だめ、だめ、わたしを置いてかないで……怖くてたまらないわ」
 レイモンドはスザンヌを押しのけ、廊下を一目散に走りだした。あとからスザンヌもついて来た。左右の壁によろよろと倒れかかり、悲鳴を上げながら遅れまいとする。レイモンドは階段にたどり着き、飛ぶように駆け降りてから、いきおいよく身を躍らせると、大きな居間のドアのところで急に立ちどまった。敷居の前で、足に根が生えたようだった。かたわらでスザンヌが、へなへなとくず折れる。ふたりの正面、三歩ほど離れたところに男が立っていた。ランタンを手にぶら下げている。男は、その光をふたりの娘のほうへ向けた。まぶしい光に目がくらんだ娘たちの青ざめた顔を、まじまじと見つめる。しばらくして、決して急がず、この世でいちばん物静かな仕草で帽子に手をやると、一枚の紙切れと二本の麦わらを指先でつまみ、カーペットについた自分の足跡をいくつか消したあと、バルコニーのほうへ歩を進め、そこで娘たちを振り返ってから、深ぶかと頭を下げて一礼し、姿を消した。