ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Don Delillo の “Underworld”(2)

 仕事が一段落ついたので、先週末、愛媛の田舎に帰省していた。ぼくのふるさと宇和島市にある中町(なかのちょう)教会の前を通りかかると、たまたまクリスマスを祝う会のまっ最中。教会付属の鶴城(かくじょう)幼稚園の園児たちの歌声が聞こえてきた。

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 もう半世紀以上も昔、ぼくもここでキリスト降誕劇に東方の三博士のひとりとして出演。そのときのセリフはいまでも断片的に憶えている。「ああ、あそこにエスさまが!」それが正確には「イエスさま」だったと知ったのは、ずいぶんあとの話だ。いまの園児たちも、大きくなってこの夜の劇を懐かしく思い出すことがあるのだろうか。

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 それはさておき、こんどの旅行の友は、Loius-Ferdinand Céline の "Journey to the End of the Night"(1932)。恥ずかしながら未読でした。
 セリーヌというフランスの作家がいることは、学生時代に故・生田耕作氏の『るさんちまん』で知った。冒頭の評論が「敗残の巨人 ― L-F・セリーヌ」。どんな内容だっけ、といま最初の数行に目を走らせたところで、あわてて本を閉じた。これを読んでは、あとで無手勝流のレビューが書けなくなってしまう。
 ともあれ、聞きしにまさる怪作である。いまのところ、☆☆☆☆★は間違いない。それに、とても面白い! が、その理由については後日おいおい書くとしよう。
 前置きが長くなった。表題作の "Underworld" も "To the End of the Night" と同じく、ほんとうは〈catch up シリーズ〉の一環として、今年の春にでも読もうと思っていた。それが突然、思いもよらぬ事態で4月から元の職場に呼び戻され、以後多忙の日々。年始めにぼんやり立てていた読書予定なんて一気に吹っ飛んでしまった。ぼくの今年の漢字は、ずばり「変」。
 さて、本書を読みはじめ、ついでに奥付を見たとたん、驚いた。なんとこれ、1997年の作品ではないか。ぼくはてっきり、9.11の話とばかり思っていた。
 そんなアホな、と大方のヒンシュクを買いそうだが、なにしろカバー写真はあのツイン・タワー。たぶん入手したときは勘違いしてなかったはずだけど、長きにわたる積ん読中に、いつのまにかツイン・タワーの連想で架空の内容が頭に刷り込まれてしまったものらしい。 

 とはいえ、ケガの功名で、本書の限界に気がついた。これはテロの時代である21世紀の世界的状況とは、ほとんど関係のないものである。
 むろん、ここで描かれているような核の脅威は今日でも厳然として存在する。テロリストが小型核爆弾を使用する可能性も皆無ではないだろう。そしてもちろん、いまや東洋の小国でさえ核兵器の配備をもくろんでいるかのようだ。
 けれども、アメリカ同時多発テロ事件を契機に、20世紀とは大きく異なる状況が世界的な規模で発生したことは素人目にも明らかだ。ところが、この "Underworld" にはイスラム関係の話題がまったく出てこない。いまネットで検索すると、アルカーイダの設立は1988年。本書の刊行は1997年。その10年近くのあいだに、Don Delillo は新たな危険を予感させるような知識を得ることが一度もなかったのだろうか。
 もちろん、20世紀末の時点で、いつかテロの時代が訪れるとはだれも予測していなかったかもしれない。だが、少なくとも、冷戦が終了したからといって世界平和が確立するとはかぎらない、いやむしろ新たな火種が生まれるのでは、と考えていた人たちはいるはずだ。しかし本書を読むかぎり、Don Delillo はどうやら、そのひとりではなかったようなのである。(この項つづく)