ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Don Delillo の “Underworld”(3)

 世間はきのうで仕事納めという人も多いだろう。ぼくもいちおう休暇中なのだけど、自分で企画した仕事をかかえている。このところ午前中にノルマをこなし、それから家の大掃除という毎日だ。おかげで、Loius-Ferdinand Céline の "Journey to the End of the Night" はボチボチ程度。先週末の帰省旅行中のほうがよっぽど進んでいた。このぶんだと、年明けまでかかりそうだ。
 さて、"Underworld" の落ち穂拾いをつづけよう。前回も書いたとおり、ぼくはいままで知らなかったけれど、本書の刊行は1997年。つまり、これは冷戦終了後ほどなく書かれた作品である。
 たしかにベルリンの壁崩壊(1989)や、ソ連崩壊(1991)の話題も出てくるのだが、巻頭のエピソードは1951年10月3日、ワールド・シリーズへの進出を賭けたブルックリン・ドジャースニューヨーク・ジャイアンツの最終戦。その最中、ソ連が2度目の核実験に成功したというニュースが、観戦中のFBI長官エドガー・フーヴァーに伝えられる。
 この野球中継と国際政治という「対比は、これ以上望めないほど蠱惑的」なのだけれど、ひるがえって、冷戦終了後に書かれた本書は、どうして冷戦たけなわの時代、それも上の日から始まらなければならなかったのだろうか。
 この謎を解く鍵は、この試合の勝者と敗者が「和解」するという後日談にあると思う。正確に言うと、「大リーグ史上にのこる劇的サヨナラホームラン」を打ったジャイアンツのボビー・トムソンと、打たれたドジャースのピッチャー、ラルフ・ブランカのふたりが、ニクソンレーガン、ブッシュなどの歴代大統領をはさんで一緒の記念写真におさまるのである。
 同様に、冷戦の勝者と敗者も、いつかはトムソンとブランカのように同時に顕彰される日がやってくるだろう。本書が「蠱惑的な対比」から始まるのは、そういう期待が込められているからではないか。ただの思いつきにすぎない図式的な解釈だと自覚しつつ、さりとてぼくには、それ以外に巻頭のエピソードの意味がどうしても考えつかない。そのあたり、研究者や評論家によるどんな考察がなされているのかちょっぴり興味がある。
 ともあれ、そう考えると、「以後、それに匹敵するシーンがひとつもなく、鮮やかに明暗を分けたあとに続くべきアンダーワールドへの洞察も底が浅い」のもよくわかる。冷戦の勝者と敗者の和解を暗示する対比を超えた対比など本書にはありようもなく、そんな和解につながるアンダーワールドがあるとしても、それが具体的にどんな世界なのか怪しいものだからだ。
 実際、Don Delillo は本書を読むかぎり、冷戦の終了によって世界平和が実現するのでは、少なくとも、実現してほしいと願っていたフシがある。A word appears in the lunar milk of the data stream. .... You can examine the word with a click, tracing its origins, development, earliest known use, its passage between languages, and you can summon the word in Sanskrit, Greek, Latin and Arabic, in a thousand languages and dialects living and dead, and locate literary citations, and follow through the tunneled underworld of its ancestral roots. .... a word that spreads a longing through the raw sprawl of the city and out across the dreaming bourns and orchards to the solitary hills. Peace.(pp.826-827)
 結びの一節である。ぼくはこのくだりを、いったいどんな深遠な単語が待っているのだろうと期待しながら読んだ。それがなんと peace だったとは、ガクッときましたね。a condition or period in which there is no war between two or more nations. これが Longman Dictionary of English Language and Culture(第2版)による peace の第1義である。たぶんほかの辞書でも似たり寄ったりだろう。こんな定義の言葉に、Don Delillo が言うような「あまたの語源のアンダーワールド」があろうとは、にわかには信じがたい話である。
 そんなアンダーワールドより、レビューでも引用した Eisenstein 監督作品 "Unterwelt" のテーマ、the contradictions of being .... the mutilated yearning, the inner divisions of people and systems, and how forces will clash and fasten のほうが、よほど奥の深いアンダーワールドではないだろうか(p.444)。
 冷戦の時代、米ソの対立は世界平和にとって大きな障害だと考え、冷戦が終了すれば平和な世界になると予想していた人たちは、何かの統計で調べたわけではないけれど、非常に多かったような気がする。それもまた〈冷戦思考〉のひとつだった、とぼくは思っている。そして Don Delillo も冷戦思考の持ち主だったのでは、だから本書は「テロの時代である21世紀の世界的状況とは、ほとんど関係のないもの」なのではあるまいか。
 ついでに言えば、この冷戦思考は、テロの時代となった今日でも、とりわけ東洋の島国では新しいかたちで根強く存続しているように思うのだけど、どうでしょうか。「……が終われば世界は平和になる」という楽観論である。ネクラのぼく自身は、戦争とは「存在の矛盾」、「人間と組織の内的分裂」によるものであり、人間が分裂した存在である以上、何が終わっても戦争はなくならない、と悲観している。とはいえ、新しい年が少しでもよい年でありますように。
(写真は、愛媛県松山市大街道にある蕎麦屋〈まろ〉。帰省のたびに寄っている。先週撮影)

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