ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Peter Carey の “Oscar and Lucinda”(4)

 Peter Carey の作品を読むのは10年ぶり3冊目。3冊のなかでは本書がいちばん出来がいい。最近 catch up したブッカー賞の受賞作・候補作に目を移しても、面白度という点では "Number9Dream"(☆☆☆☆)といい勝負。そちらのほうがぼく好みだが、本書のほうが面白いというひとがいても決してフシギではない。
 また、文学的にも同書より一枚上だと思う(☆☆☆☆★)。理由はいくつかあるが、まず、これが「オーストラリアの移民、開拓、布教の歴史を織りなす」「国民文学の傑作である」こと。やはりぼくの好みだが、一個人の物語からスタートして国民や民族全体の問題に達する作品については評価が甘くなる。
 むろん、ただそんな問題を扱えばいいというものではない。要は、その扱いかた次第である。
 ぼくはオーストラリアの歴史にかんする知識をほとんど持ち合わせていない。それゆえ、本書で記述されている内容が彼の国の読者にとって先刻承知のものかどうかは判断できない。ただ、たとえばオーストラリア行きの旅客船上で起きた「抱腹絶倒もののドタバタ劇」など、これはやはりフィクションとしか思えない。移住の過程でいろいろな事件があったはずだが、それを知っているひとなら、史実を思い出しながら腹をかかえて笑ったことだろう。
 とはいえ、じつは後半にいたるも評価は☆☆☆☆だった。たしかに「一個人の物語からスタートして国民や民族全体の問題に達」した作品ではあるのだけれど、その問題の扱い方が抜群にすぐれているとまでは思わなかった。
 そこへ「終幕で鮮やかなどんでん返し。これにはアッと驚いた」。
 ネタを割らない程度に驚きの理由を書くと、本書の "Oscar and Lucinda" というタイトルそのものに伏線がある。アダムとイヴの物語に始まり、『ダフニスとクロエ』『ロミオとジュリエット』『ヘルマンとドロテーア』とくれば、ある一定の筋立てを予想するものだ。つまり、「男がいて、女がいる。ふたりはどう結ばれるのか」。それが本書では…
 ほかにも伏線がある。上のドタバタ劇は Oscar が水恐怖症ゆえに引き起こすものだが、ぼくはそれを単に愉快なエピソードとしかとらえていなかった。それがじつは…
 そうした伏線が伏線であったことに気づいたときの衝撃は、まさに驚天動地。しかも、ただビックリしただけではない。よくよく考えてみれば、これはいみじくも「『人生は恐ろしい偶然と必然の結果』という真実」を物語っているではないか。
 あれがこうなり、これがああなり、あそこで彼と出会い彼女と別れ、ここにこうしてぼくがいる。年をとればとるほど、そんな思いに駆られるものだ。途中でどうにかならなかったのか。もちろん、どうにもならなかった。出会いと別れは、いや、そもそも誕生からして自分の思いどおりにはならず、水恐怖症なりなんなり、持って生まれた性格や特徴にしても、死ななきゃ治らない、変わらないのである。
 つまり、本書は「一個人の物語からスタートして国民や民族全体の問題に達」しつつ、ふたたび個人の問題に立ち返っている。人の一生は「恐ろしい偶然と必然」の連続であり、もし運命があるとしたら、運命とはそうしたものだろう。国家の運命もそうだ。コロナ禍ひとつとっても、事件の発端と経緯を振り返れば、彼の国の特殊性、この国の国民性と多分に関係している。
 とそんなことを考えさせるとは、本書のどんでん返しに二度ビックリ。★ひとつ(約5点)追加したゆえんである。

愛媛県宇和島市にあったぼくの生家。再アップ。いまは更地になっている)

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