ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Halldór Laxness の “Independent People”(2)

 Halldór Laxness というアイルランドの作家がいることを知ったのは、過去記事を検索すると2009年の5月。その当時、米アマゾンのベストセラー・リストになぜか本書がちょくちょく顔を出していたようだ。 

 ベストセラーなんて、いまでこそ久しくチェックしたことがないけれど、当時は旧作の積ん読の山を気にしつつ、新作、話題作を熱心にリアルタイムで追いかけていたおぼえがある。定評のある作品に取り組むのは、ひとの猿マネをしているようで面白くない。それより自分がいち早く、新たに名作を発見したかのような錯覚にひたりたい、というへそ曲がりゆえの読書傾向だ。
 そんなわけで、ろくに調べもせず本書を買い求めたところ、なんと Laxness は1955年にノーベル賞を受賞した大作家であることが判明。邦訳も出ている(1957年『独立の民』)。そこで一気に興味が薄れ、分厚い本ということもあって、以来、積ん読の高峰のひとつになってしまった。
 それが今回、やっと登頂する気になったのは〈書棚つながり〉。本書の前に読んだ Yourcenar, Marguerite の隣りの棚に、アルファベット順で「L-P」の作家のものが並んでいる。それをながめているうちに、ふと思い立った。
 読後に調べてみたが、邦訳はあまり話題にならなかったのか、上の一回きりのようだ。ほかの作品も1972年を最後に翻訳されていない。わが国では Laxness はもはや忘れられた作家といってもいいだろう。
 しかしこれ、埋もれたままにしておくのは、ちょっともったいない作品である。「それぞれのエピソードに強烈な迫力や魅力がありストーリーテリングも巧妙で、思わず引きこまれる」からだが、レビューでふれなかった点を捕足すると、会話がとても面白い。主人公 Bjartur は独立の民を自負するだけあって、だれかに突っ込まれても、かならず切り返す。その相手もやはりみごとに切り返し、こうした repartee は小説の華。俄然、得点が高くなる。
 その自負心がまたすごい。羊飼いの Bjartur にとって農場経営が自由と独立を守る「世界戦争」であることはレビューで述べたとおりだが、彼は羊にこだわり、牛には見向きもしない。牛乳のおかげで病弱の妻が体力を回復しても意に介さない。それどころか、とそこから先のネタを割るのは控えるけれど、とにかく自分の原則を墨守する頑固さはハンパではない。そんな独立精神がアイルランドの国民性であり、それがいまなお健在なのだとしたら彼の国は安泰だ、とそう思わずにはいられなかった。
 ひるがえって、という日本の話はやめておく。それより、本書を読んでいて気になったことがある。上のように自由と独立の問題が扱われる文脈である。それは「精神の自由より物質の自由に重きをおく傾向」を暗示しているのではないか。
 そこで思い出したのが、ラッセルを批判した福田恆存の『自由と平和』。「人間に生れる自由、生れない自由はない。(中略)人間は在つても無くてもよい。偶然に存らしめられたのであり、偶然に無くさせられるだけの話である。その点、人間は他の生物や物質と何の相違も無いのであるが、ただ人間は自己がさういふものである事を自覚する事が出来る。その自覚の働きが精神であり、その働きによつて、人間は精神と物質とに分裂した二重の存在になる。同時にその事によつて、人間は自由になる。あるいは自由の意識を所有する。それは言換へれば、人間には自由が無いといふ事の自覚に過ぎず、その自覚に徹した時にのみ、人間は人間としての自由を獲得するといふ事である。本来の意味の自由とはさういふものなのである。」
 Laxness は共産主義つまり唯物論に傾いたこともあるそうだが、物質の自由、ひいては政治的自由しか頭にないと、福田の言う自由の二重性を見落とすことになる。と、そんなことを考えているうちにレビューの書き出しを思いついた。お気づきだったでしょうが、福田のパクリである。

(下は、きょう届いたCD。中古だが、すばらしいです) 

バッハ:ブランデンブルク協奏曲

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