ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Orhan Pamuk の “Snow”(2)

 連日ウクライナ情勢の報道に接しているうち、過去記事で red or dead という問題にふれたことがあるのを思い出した。

 red or dead とは、冷戦時代、西側の人びとが旧ソ連の核の脅威に屈して共産主義を選ぶか、それとも、自由と民主主義を守るために核戦争も辞さず死を選ぶか、と迫られていた「究極の選択」のことだ。
 むろん実際には、そんな二者択一にいたるまでもなく冷戦は終了したのだけれど、屈服か死か、という問題そのものが消えてしまったわけではない。ただ、上の記事では、この問題は「じっくり考えてみる価値があるように思う」などと、「マダノンキ」な感想しか述べていなかった。まさか現実に「究極の選択の時代」が来ようとは、夢にも思わなかった。
 つまりコロナ渦につづき、いまや世界の状況は現象的には一変したように見えるけれど、上の記事でも書いたように、それは本質的な変化ではなく、むしろ本質が以前よりも顕在化したにすぎない。力と正義の問題はソクラテスの時代から論じられてきたし、今月初めの記事でもふれたとおり、ペロポネソス戦争の時代から、力は正義なり、というのが国際政治の現実だったのだ。
 などと青くさい観念論に終始し、これほど重大な問題を入口だけですませながら駄文を綴るとは「マダノンキ」な話だ。「ひとりの人間としてなにができるか、なにをなすべきか、ということを考え」た結果、実際にはほとんどなにもせず、平和のありがたさを実感するだけ、とはなんという無力な怠惰だろう。
 こんなとき、ひとは神に祈るのだろうか。今年はたまたま最近まで、アレグリからゼレンカまで作曲家のアルファベット順に、バッハ以前の古楽を読書のBGMに聴いていた。そこで気づいたのだが、古楽にはふたつの流れがあるかもしれない。ひとつは、グレゴリオ聖歌にはじまる宗教音楽。もうひとつは、クープランテレマンに代表されるような宮廷音楽ないし世俗音楽。時節柄、前者のほうに聴きいってしまった。そして思った。これは祈りの音楽ではないか。
 さらに考えたのだが、祈りの音楽の歴史は流血の歴史と重なっているかもしれない。ペロポネソス戦争の時代から上のような現実があり、流血が絶えなかったからこそ、神に救いを求める祈りもまた連綿とつづき、その祈りを心のなかだけでなく、口にし声に出して生まれた音楽がおそらく、キリスト教の場合はグレゴリオ聖歌だったのだろう。
 祈りは、上の「究極の選択」にたいして第三の道をひらくものかどうか、それはわからない。善なる神はなぜ、この世に悪の存在を認めるのか。なぜ神は沈黙したままなのか。こうした弁神論の問題と祈りは深くかかわっているだけに、祈りについて安直な答えは出せない。
 ともあれ、今回のウクライナ侵攻にかんして、いろいろな友人知己と連絡を取りあったとき、あるひとから「今は一人静かに聖堂で祈るのみ」との返信を頂戴した。ぼくのように入口観念論をもてあそぶより、よほど真剣な、あるべき姿のひとつだと思う。
 看板に偽りあり。いつまでたっても表題作の話にならない。急遽ひとつだけ書くと、"Snow" では、「西欧化をむねとする世俗派と、伝統を重んじるイスラム派との対立、ひいては文明の衝突、その一方で統一への希求といったさまざまなベクトルが見えてくる」。そのベクトルのなかに、NATO加盟国でありながら、中露との軍事協力もおこなうというトルコの分裂した立場もふくまれるのでは、もしかしたら「究極の選択」を回避する第三の道が示されているのかも、と期待しながら読んだのだが、該当する記述は見あたらなかった。
 今回はこれでおしまい。ほんとうに看板に偽りありでした。(この項つづく)

(下は、この記事のBGMにつかったCD。古楽につづき、いまはアーティストのアルファベット順にジャズを聴いている。ビージー・アデールは〈カフェ・ジャズ〉の典型だが、暗い時代には楽しい音楽のほうが合っているのかも。うん? これも「マダノンキ」な話かな)

An Affair to Remember

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