ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Shehan Karunatilaka の “The Seven Moons of Maali Almeida”(2)

 Shehan Karunatilaka? 聞いたことのない作家だなと思いながら Wiki をチラ見。一瞬おいて、あ、と叫んだ。なんだ、"Chinaman"(2011)の作者だったのか。同書なら、いまはなき英連邦作品賞(Commonwealth Book Prize)の2012年受賞作ということで、デスク横の〈気になる積ん読本〉の書棚に飾ってある。最新作がブッカー賞の候補作になると知っていたら、とうの昔に片づけていたろうにと悔やんだが、あとの祭り。よくある話ですな。
 さてこの表題作、読みはじめたとたん、2017年のブッカー賞受賞作、George Saunders の "Lincoln in the Bardo"(2017 ☆☆☆★★★)のことを思い出した。どちらとも「生と死の中間領域」を扱っているからだ。

 また、マジックリアリズムを駆使したゴースト・ストーリーという点でも両書は共通しているが、叙述や表現といった言語芸術の作品としては、"Lincoln .... " のほうが一枚上。意識の流れに近い、あるいは「意識の途切れ」とでもいうべき技巧がほどこされ、「爆発的なことばの乱舞」が演出されている。
 が、そうした「超絶技巧のわりに底が浅い」。「要するに死とは悲惨なもの、というテーマしか見えてこない」からだ。具体的には、戦争における遺族の悲しみと死者の嘆きというおなじみの題材である。それがなぜそれだけでは「底が浅い」かというと、たとえばいま、ウクライナの人びとは死を覚悟で守るべきものがあるからこそ、悲惨な現実に耐えて戦っている。そのような悲劇性についても考察しなければ皮相な死生観といわざるをえない。
 一方、"The Seven Moons of Maali Almeida"(2022 ☆☆☆★★) では、1983年からはじまったスリランカ内戦が死後の世界にも色濃く反映されているため、死は悲惨であるだけでなく、死をもたらした張本人を裁くべきものとして扱われる。

 このとき問題は、「通例、来世とは神の救いと裁きがおこなわれる場だが、ここでは神は不在。代わって善霊が悪霊と戦い、(主人公の)マーリもまた現世における不正を糺そうとする」点だ。つまり、生者であろうと死者であろうと、神ならぬ人間にとって完全な裁きは不可能。そこで、内戦当時の恐るべき実態だけでなく、おそらく今日でも継続しているのではないかと思われる醜悪な政治の現実が浮かびあがってくる。
 それはいいのだが、「想像の翼をひろげすぎて支離滅裂に近い箇所もあ」り、八方やぶれというか、ごった煮というか、裁きも、裁きようのない現実も、すべてが「狂乱のゴースト・ストーリー」として混在。たしかにハチャメチャなおもしろさはあるのだが、まとまりに欠けることも事実だ。
 こうしてみると、本書と "Lincoln ...."、内容的にはほぼ互角といっていいだろう。どちらもいい線は行っているが、ともに不満な点がないわけではない。(つづく)

(下は、この記事を書きながら聴いていたCD)

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