ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

J.G. Farrell の “The Siege of Krishnapur”(3)

 前回からずいぶん時間がたってしまった。そろそろこの項も片づけてしまわないと、ぼくのことだ、そのうち本の中身をほとんど忘れてしまうかもしれない。
 本書もそうだったが、このところ、大作ほど結末が見えてきたところでひと休み。それがそのまま大休止となりがちだ。あとはいつでも読める、と安心してしまうのがいけない。ほかの本(日本のもの)に目移りしてしまうのもいけない。
 本書の場合、そもそもタイトルがよくない(内容的にはズバリ、これしかないのだけど)。この siege が籠城者の生存と玉砕、どちらかでおわるに決まっている、とひと目でわかる。
 ぼくはじつは、ひそかに玉砕のほうを期待していた。読んでいる途中では、これが1857年から同58年にかけて起きたインド大反乱セポイの反乱)を下敷きにしたもの、というイロハを知らなかった。だから、籠城戦を指揮した収税官 Hopkins の生存が確定した時点で、不謹慎ながら、なんだ玉砕じゃなかったのか、と拍子ぬけしてしまった。
 そこで反射的に、玉砕つながりで硫黄島アッツ島などの激戦のことを思い出し、そもそもあの戦争自体が最初から玉砕覚悟のものじゃなかったんだっけ、とぼんやり考えた。そして手に取ったのが阿川弘之の『井上成美』。
 忘れていたが、阿川によると、開戦時、第四艦隊司令長官だった井上成美は真珠湾攻撃直後、作戦成功の祝いを述べた部下をバカもの呼ばわりしてたしなめたという。あ、これは阿川の『米内光政』で仕入れた話だったか。
 ともあれ、海軍きっての合理主義者だった井上成美がもし米内ともども政権の中枢にいたら、あの戦争は未然に防げなかったにしても、多少はちがった流れになっていたかもしれない、などとラチもない空想にふけりながら『井上成美』を再読した。
 けれども、『草枕』にもあるとおり、「智に働けば角が立つ」のが日本の社会。井上成美は旗幟鮮明、その合理主義ゆえに多くの人びとから嫌われたという。結局、あの戦争は井上の予言どおりになるしかなかったのだろう。
 その井上成美や、硫黄島の総指揮官、栗林忠道などとくらべると、上の Hopkins はいかにも格が落ちる。彼はとうてい偉大な人物ではない。だからこの "The Siege of Krishnapur" も、たしかに秀作にはちがいないけれど……
 とそんな感想をいだきつつ、さてレビューを書こうと思って下調べをはじめたとたん驚いた。ゲッ、これは史実にもとづくものだったのか。しかも上の反乱だけでなく、どうやら関係がありそうなこととして、反乱の収束とともにムガル帝国が消滅し、1877年にヴィクトリア女王インド帝国の皇帝となり、名実ともに大英帝国が誕生。
 これを踏まえてぼくはレビューをこう締めくくった。「ホプキンスは1851年のロンドン万博で文明の進歩を実感、その思い出が籠城中もしばしば胸をよぎるが、万博ゆかりの品じなも木っ端みじん。悲惨な戦争の現実を目のあたりにして進歩を疑うようになる。反乱の鎮圧により名実ともに誕生した大英帝国の栄光と悲惨をみごとに描いた秀作である」。

 こうしてみると、J.G. Farrell は Empire Trilogy の第一作、"Troubles"(1970 ☆☆☆☆★)で大英帝国崩壊の兆しを描き、この第二作 "The Siege of Krishnapur"(1973 ☆☆☆☆★)で帝国の誕生秘話を扱ったことになる。が然、第三作 "The Singapore Grip"(1978)の内容と出来ばえが気になるところだが未読。当面の読書予定にも入っていない。
 Farrell の作風としては、だいいちにドタバタ悲喜劇が挙げられるだろう。"Troubles" においては「不条理なおかしさ、ここにきわまれり」。"The Siege of Krishnapur" の absurdity はそれに次ぐものだ。この absurdity が「崩壊の兆し」や「栄光と悲惨」という重いテーマを支えている点に Farrell のすごさがある。彼は "The Singapore Grip" を上梓した翌年に物故。当時のぼくは名前すら聞いたこともなかった。リアルタイムで読んでおきたかった。

(下は、この記事を書きながら聴いていたCD)

Hope by Koji Goto (2007-10-09)