ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Paul Lynch の “Prophet Song”(2)

 10月27日からはじまった読書週間が昨日でおわった。新聞によると、「あるアンケートでは、1ヵ月間に全く本を読まないという回答が半数近くを占めた。原因の一つは『読みたい本が分からない』こと」。
 ぼくも他人ごとではなく、この春ごろから読書量が激減。ビンゴー・キッドくん、衰えたり、というわけだが、老衰だけが原因ではなく、諸般の事情というやつもある。
 上の記事によると、活字離れの「理由として、最も多かったのは『読む時間が確保できない』だった」。これはぼくにもちょっと当てはまる。先日もジムで走ったあと、さてデスクにむかおうと思ったら、三軒先に住んでいる孫のショウちゃんが「ジージーと遊びたい」。
 ただ、アンケート結果とちがって、ぼくの場合、「読みたい本がない、分からない」ということはない。むしろ、読みたい本はありすぎて困るくらい。
 もっと困るのは、その積ん読本が超大作だったり、難解で知られる本だったり、定評のある本だったりすること。第三グループの例として、じつは今年こそ、中高校生のころ邦訳で読んだ19世紀英文学の古典に挑戦しようと思っていたのだけれど、もう年の瀬が近づいてきた。
嵐が丘』、『ジェイン・エア』、『高慢と偏見』、『デイヴィッド・コパフィールド』。どれもとてもおもしろかった記憶があり、しかも折り紙つきの名作だ。そんな本を英語で読んだからといって、屋上屋を架す以外にどんな感想が書けるのだろう。そこでつい、あとまわし。
 第一、二グループについてはいうまでもなく、読みたい本が手ごわい。ゆえにこれも相変わらず積ん読
 とそんなこんなで、仕方なく新作に手を出すわけだが、春先から困ったことに、おもしろい本になかなか出会わない。もっと具体的にいうと、最初からつまらないか、途中からつまらなくなる本が多い。表題作は後者の例だ。
 途中経過から復習しておこう。当初は「詩的な情景描写と、人物の不安・緊張感がなかなかいい」と思ったが、そのうち、「この先なにが起こるかわからない、といったおもしろさはない」ことに気づいた。それが一時的に、先が読めるわりに盛り上がり page-turner となったが、結局、どのエピソードも「いつかどこかで読んだり見たり聞いたりしたようなことばかり」。終幕で「急に飽きてしまった」。
 きょうはいつにもまして駄文だったが、本書はもう忘却の彼方に去りつつある。こんな復習でもしておかないレビューの補足ができない。お粗末さまでした。(この項つづく)

(写真は、幼稚園の駆けっこで1番にはなったけれど、ゴールに頭から突っこんだショウちゃん)