ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Nicola Barker の "Darkmans"

 Nicola Barker の "Darkmans" をやっと読みおえた。なにしろ800頁を超える大作で、腕力のないぼくは持ち運びに苦労したが、読んだ甲斐はまずまずあった。

Darkmans

Darkmans

[☆☆☆☆] 幕切れ近くで「人生は偶然の連続」という言葉を目にしたとき、ああやっぱり、と思った。というのも、最初はいつもどおり、話の本筋は?作者の意図は?と考えながら読んでいたのだが、突飛な行動に走る人物が次々に登場し、何だかヘンテコな事件ばかり起こるので下手な詮索を諦め、各シークエンスを追いかけることだけに専念した。するとこれが無類に面白い。イギリスの小さな町を舞台に展開される狂騒劇、ドタバタ喜劇。何度か思わず吹きだしてしまったが、その一方、情感あふれる男と女の場面もあれば、シュールな幻想小説というかオカルトというか、夢の中のような不条理な事件も起こる。脈絡はあるようでない。いや、あることはあるのだが、躍動感に満ちた饒舌な文体とあいまって、とにかく奇想天外な面白さに圧倒されてしまう。あまりに長くて消化不良を起こすのが玉に瑕だが、偶然の連続、オフビートな日常こそ人生なのだというテーマからふりかえれば、一見何の意味もないような事件も確かな計算のもとに配列されていたことになり、まさに脱帽ものである。英語は難解というほどではないが、口語俗語表現が多く、語彙レヴェルは高い。

 …まだ未読の候補作が一つあるので断定はできないが、今年のブッカー賞はずばり、本命が Lloyd Jones の "Mister Pip" で、対抗がこの "Darkmans" ではないかと思う。こんなに長い小説を読んだのは久しぶりなので、本当はこちらに肩入れしたいところなのだが、読後の満足感でやや落ちる。
 消化不良の原因は、おおむね実はテーマそのものにある。というのも、作中人物の言うように、人生がもし本当に「偶然の連続にすぎ」ず、「何もかも恣意的なもの」であり、「恣意的な事実を固定するために存在するのは芸術だけ」なのだとしたら、結局のところ、芸術もまた恣意的にならざるをえない。つまり、人生の不条理を訴えるなら、訴えること自体も不条理だという、今さらぼくなどが指摘するまでもないベケットたちの自己矛盾である。この矛盾の先にあるものは沈黙でしかない。
 ただし、ちょうど不条理劇が鑑賞に耐える一つの芸術であるように、この小説も見事な文芸作品に仕上がっている。多くの人物を登場させながら、その性格や関係をコミカルな、はたまた不思議なエピソードをまじえて紹介する序盤。これは相当な筆力だ。僕はとんちんかんなことにバルザックの人間喜劇を連想したほどだ。それゆえ、あれほど鋭い人間観察は見られないものの、いずれ人生の真実を象徴する本筋が始まるのでは…と思ったら、それがなかなか始まらない。ほんの偶然としか言いようのない出来事をきっかけに、奇妙きてれつな事件が続くばかり。そんな展開から本書のテーマを察知した後は、とにかく流れに身をまかせて読み進めるだけだった。が、主題と細部の一致という意味の完成度では、本書はロイド・ジョーンズの『ミスター・ピップ』をしのいでいるだろう。
 けれども、たとえばマッチ棒で精巧な街の模型を作る不思議な少年の話など、本書を構成する主な要素はどれも尻切れトンボ。読んでいるときは確かに面白いのだが、さてその意味は?となると皆目不明。いや、それが人生なのだから「何もかも恣意的な」ままでいいのだ、とニコラ・バーカーは言いたげだが、バルザックの諸作が不滅の光を放つのは、それが喜劇を通じて人間の真実を照射しているからなのだ。いや、本書は不条理という真理を衝いているのだ、という反論があるとすれば、こんな中途半端な処理では、不条理を描くにしても説明不足だと再反論したい。
 少しケチをつけてしまったが、この小説が量だけでなく質的にも大力作であることは間違いない。とりわけ、現実の事件を夢とも幻想とも形容できるような筆致で描いた終盤の展開が圧巻。ぼくは一瞬、ドノソの『夜のみだらな鳥』を思い出したほどで、この作家はマジック・リアリズムの世界を構築する力が充分にある。お色気たっぷりの足治療師と男たちの情景は、よくできた恋愛小説そのものだ。『ミスター・ピップ』にも決して不満がないわけではないので、番狂わせで本書が栄冠に輝いてもいいと思う。