ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Indra Sinha の "Animal's People"

 Indra Sinha の "Animal's People" を読了。これで今年もブッカー賞の最終候補作をぜんぶ読んだことになる。アマゾンへの投稿はもうやめようかと思ったが、習い性でレビューを送ってしまった。(その後、削除)

Animal's People

Animal's People

[☆☆☆★★★] テーマ的には一種の告発小説だが、その主張もさることながら、複雑な語りの構造と白熱したパワフルな文体のおかげで一気に読んでしまった。インドの化学工場で起きた事故で数千人の住民が死亡、いまだに後遺症に苦しむ患者が大勢いるという実際の事件を題材にしたものだが、安手のヒューマニズムや正義感に頼ることなく、何よりもまず、芸術作品として仕上がっている点に好感がもてる。有毒ガスの影響で背骨が曲がり、四つ足で歩く「動物」となった青年の回想を中心に、激しく吹き荒れる感情の嵐。苦痛と絶望、悲哀、不正への怒り、さらには異性への憧憬、性欲、自己嫌悪。告発小説と言ったが、青春小説と言える要素もあり、そうしたもろもろの情念が、たとえば「死体との会話」や終盤の幻想的な場面などのように、ときに時空を超越したマジック・リアリズムへと傾斜しながら表出される。その語り口の変化の妙と、対立する人々の緊張関係の描写。それが本書を荒削りながら芸術作品たらしめているものだ。英語はとにかく力あふれる独特の文体で、フランス語が混じるなど、難易度は比較的高い。

 …向こうの紹介記事を読んだら公害事件の話らしかったので、社会正義の押しつけはかなわないと思って今まで敬遠していたのだが、これは意外によかった。たぶん賞は取れないだろうが、独断と偏見に満ちたぼくの評価では、全候補作中で三番目の出来ばえだ。あちらの下馬評は低いが、大穴をねらうならこの作品だと思う。
 本書が成功を収めているゆえんはいくつかある。まず主人公の設定がいい。それは単に、四つ足の「動物」と化した人間という一風変わったキャラだからというだけでなく、この人物が内面にさまざまな矛盾をかかえ、その矛盾に苦しんでいる人間として描かれているからだ。惚れた娘への純愛と性欲の葛藤がいい例だろう。次に、価値観の異なる複数の人物を配することによって、心理的な緊張関係が生まれている点も買える。欲を言えば、この点をもっと書きこんでもらいたかったが、それでも単なる善玉悪玉の色分けに終わっていないのがよい。こうした人物設定に加え、主人公がなんと死体標本と会話を交わしたり、内心の自分と話し合ったり、はたまた、意識の流れ的な描写や、現実とも幻想ともつかぬシュールな場面が出てきたりする。そしてそんな叙述の変化を支えるパワフルな文体があるわけだ。
 つまり本書は、正しい主張を述べれば能事足れりという政治的なアジテーションではなく、その主張を説得力のあるものにすべく、いろいろな工夫がほどこされた作品なのである。この工夫が、同じく今年の候補作である Mohsin Hamid の "The Reluctant Fundamentalist" には足りなかったわけだ。事件の告発というテーマゆえに限界はあるものの、複雑な人間の心理という普遍的な問題に迫っている点で、この「印パ対決」はインドのほうに軍配を上げたい。