ブログを休んでいるあいだ、読書のほうも本書をボチボチ読んでいた以外はさっぱりだったが、映画はテレビでけっこう観ていた。いちばんノックアウトされたのは、久しぶりに観た『緋牡丹博徒・花札勝負』。いやもう、お竜さんの美しいこと! ブルーレイ版が出たら購入するかもしれない。
おととい、「自分の中にある内宇宙を突き進み、存在の根底を掘り下げる」文学がゴヒイキだと粋がってみせたわりには、それが任侠映画とどう結びつくのか自分でもよくわからない。が、とにかく、ぼくの中では Sebald の小説の魅力と、お竜さんのきりっとした艶姿がみごとに共存している。そんなひと月だった。
美しい映像にはただただ惹きつけられるしかないのだが、活字の場合は、ページをめくる手を休め、いろいろ考えることができる。小説の世界に没入しながら、同時に自分のことにあれこれ思いをはせる。といってもその多くは、よしなしごとだ。Sebald に耽溺していたからといって、べつに深遠な「存在の根底を掘り下げ」ていたわけではない。が、わが身をふりかえるという行為なしに Sebald を読むことが果たして可能なのか。そもそも、読書とはそういうものではないだろうか。
ここで、"The Rings of Saturn" の適当な箇所を引用してその魅力について語ろうと思ったが、どうも目移りして困る。きょうはいっそ、Sebald の真似をしてみよう。
これはぼくの生家だ。正確にいうと、ぼくは愛媛の宇和島という田舎町の病院で生まれたのだが、小学校の二年生まではこのオンボロ長屋に住んでいた。夜中に天井の〈表側〉をネズミが走り、それをねらってときどきヘビが出ることもあった。ぼくは道ばたに転がっている棒っきれが大嫌いである。
水道はなく、上の井戸が長屋の生活源だった。ここで昼間、いつも近所のおばさん連中が文字どおり井戸端会議。にぎやかで、いま思うと楽しくて、ヘビの出た明くる日も、おばさんたちのかしましいおしゃべりを聞いているうちにホッとしたのではないかしらん。
それがいまや、どこも無人になってしまった。うちの隣りの部屋というのか家というのか、とにかく〈そこ〉は先年、台風でこわれてしまい、更地になっている。二枚の写真は昨年、父の四十九日の法要で帰省したときに撮ったものである。