ビンゴー・キッドの洋書日記

英米を中心に現代から古典まで、海外の作品を英語で読み、論評をくわえるブログです

Tommy Orange の “There There”(2)

 このところ〈自宅残業〉の毎日だが、きょうは意外に早くノルマを達成。余裕ができたのでドラ息子の誘いに乗り、初孫のショウマくんともども、横浜・大岡川ぞいの桜並木を見物しに出かけた。あいにくパッとしない空模様だったけれど、これなどは比較的よく撮れたほうかな。

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 仕事の合間にボチボチ読んでいる Rebecca Makkai の "The Great Believers" はようやく大詰め。ちょっぴり意外な展開があり、☆☆☆からさらに減点するほどでもないかと思い直している。ただ、相変わらず不満な点がある。前回指摘したように、一種の性格悲劇と言ってもいい筋立てなのに、作者はそれを掘り下げず、むしろ政治的・宗教的な偏見や一般大衆の無知、無関心、医学の未発達、医療制度の不備といった、もっぱら周囲の環境を背景にして悲劇を描いている。しかし、それならべつに小説のスタイルを採る必要はない。ドキュメンタリーかノンフィクション、いっそのこと研究論文でもいい。
 なぜ小説なのか。そもそも小説はどうあるべきなのか。福田恆存の『私の幸福論』にこんな一節がある。「小説や劇の主人公は、決して自由ではない。失敗しない主人公、窮しない主人公、苦しまない主人公、そんなものは誰にも愛されません。みなさんが愛するのは、苦しんでも失敗してもいいから、いかにも自分の宿命を生ききったという感じを与える生き方でありましょう」。
 "The Great Believers" の主人公、Yale の友人・知人たちは次々にエイズに感染し、彼自身もどうやらその宿命を避けて通れないようだ。Yale が死の恐怖にさらされるのは彼の宿命である。けれども、彼にはその「宿命を生きき」るという姿勢が、いまのところ見受けられない。だから読んでいて心に響くものがない。エイズを扱った過去編と交互に進む現代編のほうも、親子の断絶と絆というおなじみのテーマで新味がなく、つまらない。ほんとにこのまま終わるのかな。
 一方、"The Great Believers" と同じく去年、ニューヨーク・タイムズ紙が選んだベスト5小説のひとつである Tommy Orange の "There There" は、格段によく出来た小説である。P Prize.com の予想どおり(第2位扱いだが)、今年のピューリッツァー賞を受賞しても決してフシギではない。 

 途中まで☆☆☆★★★くらいか、と思いながら読み進んでいるうちに、最後、「宿命感覚」が鮮やかに提示されたところで得点アップ。刊行されたのが去年の5月だから、おおむねリアルタイムで読んだことになるが、そんな現代小説でぼくが☆☆☆☆を進呈したのは、読書記録を調べてみると、2017年のブッカー国際賞受賞作、David Grossman の "A Horse Walks Into a Bar"(2016)以来だった。 

 最初のうちこそ、また例の話かと思った。「プロローグで紹介されるのは、アメリカ先住民の虐殺と迫害、差別の歴史であり、子孫たちにとって『そこ』現代の都会にはもはや『そこ』帰る土地がないという事実。そんな一般常識が背景となる本編で彼らが登場したとき、ステロタイプ以外にどんな物語があると言うのだ」。
 ところが、やがて本書を読みながら、T・S・Eliot の "Notes towards the Definition of Culture" に出てくる文化の定義を思い出した。.... there is an aspect in which we can see a religion as the whole way of life of a people, from birth to the grave, from morning to night and even in sleep, and that way of life is also its culture. (p.31 Faber and Faber)
 そう、この "There There" は、アメリカ先住民のまさしく文化・宗教・民族としての生き方、そして宿命感覚をすこぶる斬新なアプローチで描いた小説なのである。しかも、単純に物語としても面白い。ネタを割るわけには行かないが、「ありがたいお祭りが始まるのかと思いきや、なんと危険な冒険アクションでクライマックスを迎えるとは!」。これには驚きましたね。"The Great Believers" にも、大どんでん返しがあるといいですな。