きのう、今年のブッカー賞一次候補作、Katie Kitamura の "Audition"(2025)を読了。Katie Kitamura(1979 - )はアメリカ生まれの日系作家で、本書は彼女の長編第5作。さっそくレビューを書いておこう。
[☆☆☆★] 俗に、親子は他人のはじまりという。わが子ながら成長した姿はまるで赤の他人。幼いころ面倒をみてくれた親が、いまや昔とは似ても似つかぬ別人のよう。肉親でもあり、そうでもないフシギな存在。本書はそんな親子の実態、ひいては家族の崩壊と和解を抽象的、形而上的に描いた実験小説である。主人公の女優「わたし」の前に現れたシャヴィエルが第一部では他人、第二部ではじつの息子という矛盾は物語的には解消されないものの、ヒロインは舞台のうえで、同じ人間が演技する自分と演技される自分に分裂する、つまり「同時にふたつのものでありうる」と述懐。こうした二重性は親子のみならず人間全体の本質であり、シャヴィエルと「わたし」の矛盾は、人間が表裏一体の存在であることの象徴とも解釈できよう。「わたし」は女優として、自分と役柄とのギャップを埋めるべく悪戦苦闘。それは母親として、息子との断絶を修復しようとする努力と呼応している。公演ごとに千変万化する演技は不安定な親子関係と一致。いわば小説そのものの構造が表裏一体で、それがまた人間性の二重構造につながっている。こうした超絶技巧はおおいに称賛に値するが、描かれる現実は旧知のもので、べつにそんな技巧を弄するまでもない。読者の想像にゆだねられたあいまいな部分も多く、すっきりしない。才女才におぼれた佳作である。