フランク・オコナー国際短編賞(Frank O'Connor International Short Story Award)が2015年で廃止されていたとは、去年まで知らなかった。え、と驚いたものだ。
ぼくのような素人ファンの場合、ニューヨーカー誌でも購読しないかぎり、いわゆる短編作家の作品に出くわす機会はほとんどない。ピューリッツァー賞や全米図書賞など権威ある文学賞の受賞作が短編集のこともあるが、それはたまたまそうなっただけ。短編小説の部門賞が設置されている賞といえば、メジャーなところでは、いまやコスタ賞くらいなものだろうか。
というわけで、フランク・オコナー賞は希少かつ貴重な存在だった。それが廃止とは、まことに寂しいかぎりである。
もっとも、ぼくがその存在に気がついたのは、そう昔の話ではない。たしか2008年の受賞作、Jhumpa Lahiri の "Unaccustomed Earth"(☆☆☆☆)を読んだ前後だったと思う。へえ、こんな賞もあるんだ、と調べてみると、なんと、われらが Haruki Murakami も受賞しているではないですか。
が、彼の "Blind Willow, Sleeping Woman"(2006)も、それから第1回の受賞作、ご存じ Yiyun Li の "A Thousand Years of Good Prayers"(2005)も、恥ずかしながら未読。だから、ほんとうは「寂しいかぎりである」などと言えた義理ではない。
それでも、2011年の最終候補作、Li の "Gold Boy, Emerald Girl"(☆☆☆★★★)など、大いに感服したものだ。わりとまめにオコナー賞を追っかけていたころの話だ。
その数年後、諸般の事情で本ブログを休止。再開してみると、上のとおり意外なニュース。やっぱり、寂しい。
前置きが長くなった。表題作に話を戻そう。I was a fool of course, but I expect you've gathered that already. I expect, with all your experience of the world, that you can see how things were beginning to shape up; that you have a pretty good idea, of what lay in store for me.(pp.50-51)
例によって文脈なしの引用だが、このくだりは、ぼくがどんな小説を読んでいても、必ず考えることを端的に示している。つまり、この先たぶん、こんな展開になるんだろうな、という予想を立てるのである。
「そしてその予想は当然のごとく、しばしば外れる」。むろん読みが浅いからだが、本書の場合、ことごとく外れっぱなし。あまりにも外れるので、そのパターンも次第にわかってきた。要するに、「よきにつけ悪しきにつけ、人と人の偶然の出会いから思わぬ結果を生じる」物語になっているのだ。
人生では当たり前の話だが、でもこれ、ほんとにホントですね。「人はただ『この先自分はどうなるのだろうと考え』つづけ」ているうちに、たまたま誰かと出会い、そこから生じた「意外な展開に呆然となるだけ。それが本書から読み取れる人生の真実である」。いやはや。
(写真は、宇和島市宇和津小学校の裏山の斜面につくられた、さるお宅の庭園。こんな個人の庭は、市内ではたぶんここだけだろう)